2014年4月27日日曜日

アルカトラズ刑務所

アルカトラズ島は、アメリカ合衆国カリフォルニア州のサンフランシスコ湾内、サンフランシスコ市から2.4kmのところに浮かぶ、面積0.076km²の小島であります。
昔は灯台、軍事要塞、軍事監獄、そして1963年まで連邦刑務所として使用されて下りました。

別名ザ・ロック、監獄島とも呼ばれています。1972年、国立レクリエーション地域となり、
1976年及び1986年にランドマークの指定を受けて下ります。

1775年、スペイン人のフアン・デ・アヤラがこの島を発見し、サンフランシスコ湾の海図を作るときにこの島に "La Isla de los Alcatraces" と名づけた。スペイン語で「ペリカンの島」という意味です。

これがやがて英語風に短縮されて "Alcatraz" となったと言われて下ります。
メキシコによるカリフォルニア統治時代の終わりころ、メキシコ政府から、ジュリアン・ワークマンという帰化メキシコ人に、島に灯台を建設する条件で島の所有名義が譲渡された記録があります。

米墨戦争(1846年 - 1848年)中にアメリカがカリフォルニアの支配権を得ると、ジョン・C・フレモントが、「カリフォルニア総督」としての資格でこの無人島を購入した。しかし、1850年、ミラード・フィルモア米大統領の命により、メキシコ政府の所有物はアメリカ政府に承継されたとの根拠に基づき、島は軍事目的のために取り上げられた。このため、フレモントによる島の購入は無意味になってしまい、フレモント及びその相続人から政府に対して何度も訴訟が起こされ、
法的紛争は1890年代まで続いたらしいです。

1848年、シエラネバダ山脈の麓で金が発見されてゴールドラッシュが始まり、サンフランシスコは多くの船が寄港する重要な地となり、灯台が至急必要になった。

1850年の連邦議会予算に、アルカトラズ島を含む太平洋岸の八つの灯台建設が盛り込まれた。1852年に、島で最初の恒久的建造物となる灯台ができた。1853年には、ゼラス・B・タワー中尉が、アルカトラズ島をサンフランシスコ湾の守りとするための要塞化工事に着手した。

南北戦争(1861年 - 1865年)の直前までに、86門の大砲が島を巡らすように設置された。
南北戦争中は、アルカトラズ島は南部連合のサンフランシスコ湾への侵入を防ぐ役割を果たしました。南北戦争が終わると、島に設置された旧式の大砲は時代遅れになってしまったため、
徐々に撤去された。それに代わって、防弾壁が島を取り囲むように建てられた。
内部には弾薬庫などが設けられていました。


南北戦争の前後から、島は監獄としての役割も果たすようになります。
地下の留置場に、島内や周囲の砦から送られた脱走兵、窃盗犯、酔っ払いなどが収容され、
1861年、アルカトラズ島は太平洋省の軍事刑務所として正式に指定されました。

南北戦争中には、反逆罪で捕らえられた南部連合派のカリフォルニア市民もここに収監された。
収容者は増加し、1863年ころロウアー・プリズン (Lower Prison) と呼ばれる刑務所棟が建てられ、
19世紀末ころまで平均100人を収容して下りました。アメリカの西部開発に伴って、
アメリカ政府とアメリカン・インディアンとの紛争が多発し、反乱罪などでアルカトラズ島に送られたアメリカン・インディアンも多かったと聞いた事がありますね。

米西戦争(1898年)の時は、フィリピンへの遠征で熱帯病に罹患した帰還兵がアルカトラズ島の病院に収容されたり、身柄を拘束された兵士が多数収監されたりした。新たな刑務所棟が必要となり、1900年、閲兵場にアッパー・プリズン (Upper Prison) が建設されました。

ロウアー・プリズンは囚人の運動場となったが、1902年の火事でロウアー・プリズンは危うく焼けるところであったらしいです。1906年、サンフランシスコ地震で街が壊滅し、市内の刑務所に火災の危険が迫ると、そこにいた一般の受刑者176人が急遽アルカトラズ島に移された。

このころから島は本格的な刑務所へ転換することとなり、今までの歩兵に代わり軍看守が配置され、1907年には島は「アルカトラズ島・合衆国軍事刑務所太平洋支所」との指定を受けました。

砦は取り壊され、1912年に3階建ての大型監房棟が島中央にでき、合計600の監房、厨房、食堂、
病院、運動場、管理事務所などを備えた大刑務所となります。発電所も建設されて下ります。

1915年、島は「合衆国矯正兵舎太平洋支所」と改名され、教育と更生に力点が置かれるようになります。受刑者は、軍事訓練、矯正教育、職業補導などを受けた上、刑期満了後は、
多くは軍務に復帰しました。

処遇は開放的で、夜間は監房に収容されるが、昼間は各自の仕事、授業、レクリエーションで時間を過ごし、規律違反の場合は独房に収監されたり鎖につながれたりした様です。

しかし、立地上、島内への水と食糧の供給にコストがかかったため、1930年代初頭の大恐慌もあって、軍は1933年、アルカトラズ島の刑務所を閉鎖することとなってしまいます。
その後は、かの有名な連邦刑務所としての時代に突入していきます。
 
 
島は軍から連邦司法省刑務所局に移管され、刑務所局は1934年7月1日、
アルカトラズ連邦刑務所を開設しました。
大恐慌や禁酒法により1920年代末から1930年代にかけて組織犯罪が激化し、
治安当局は、犯罪に対する強い姿勢を打ち出す必要があり、アルカトラズ島はそのために
「社会の敵」である凶悪犯を収容する施設という役割を担って下りました。

1934年4月から、脱走対策を万全にするため、軍事刑務所の設備に手が加えられた格子は柔らかい素材から、道具を使っても破壊できないものに取り替えられ、受刑者が逃げ隠れできる可能性のあるトンネル等はすべてセメントで埋められた。監房を取り巻くように、看守が武器を持って監視できるガン・ギャラリーが、受刑者の手が届かないよう高いところに設けられます。
ガン・ギャラリーは鉄柵で保護され、すべての鍵はその中で管理されていた。
 
食堂の天井には催涙ガスの噴射装置が取り付けられ、ガン・ギャラリー又は外部の監視場所から
の遠隔操作で噴射できるようになっていたいきます。全部で600近くの監房があったが、
どの監房も建物の外壁とは接しないようになっていたいるのが最大の特徴ですね。
 
 
この刑務所に収容されていた人員は、常時およそ260人から275人であり、連邦刑務所全体の収容人員から見れば1%にも満たなかったみたいです。受刑者にとっては、
必ず1人につき一つの監房が与えられることなど、ここの収容環境は他の連邦刑務所と比べて悪くなかったため、信じられない話ですが、
アルカトラズ刑務所への移送を希望する受刑者が多数いました。

アルカトラズ島に服役した受刑者の中には、有名な者も多いですね。
ロバート・フランクリン・ストラウドは、殺人罪でカンザス州レブンワースの刑務所に服役中に看守を殺して死刑判決を受けた後、嘆願により1920年終身刑に減刑され、1942年アルカトラズ連邦刑務所に移送され、1959年他所へ移送されるまでの17年間をここで過ごしました。

レブンワース刑務所でカナリアを飼ってその病気について研究し、本も書いていたことから「バードマン」(鳥人間)というあだ名で知られたが、同刑務所で、研究の名目で手に入れた道具を酒の密造に使おうとしていたことが発覚するなどしてカナリアの飼育が禁止され、アルカトラズ時代には鳥を飼ってはいなかったらしいです。

著名なギャングの大ボス、アル・カポネやジョージ・“マシンガン”・ケリーなどもここに収容されてい下りましたのは有名な事実ですよね。そのほか、他の刑務所で規則を遵守しない者、
暴力的行為を行った者、
脱走の危険があると考えられた者などがここに送られた来たのも有名な話ですね。

刑務所の中では、食糧、衣服、居住、医療の四つは権利として与えられていたが、
それ以外のもの仕事、面会、図書室の利用、レクリエーションなどはすべて「特典」であって、
努力によって獲得するものとされて下りました。本当に厳しい環境の刑務所ですね。

その過酷な環境に耐え切れず、信じられないような事件が幾度もおきます。
連邦刑務所時代には、14回の脱獄事件が起き、それに関与した受刑者は36人である(うち2人は2回脱走を試みた者)。このうち23人は身柄を確保され、6人は射殺され、2人は溺死した。
 
5人は行方不明であるが、溺死したものと推測されている。1946年3月に起きた脱獄事件は「アルカトラズの戦闘」として知られる。6人の受刑者が看守を襲って武器と監房の鍵を手に入れたが、運動場への鍵を見付けることができず脱出に失敗し、当局との銃撃戦の末、2日後に制圧された。
 
6人のうち3人は死体で発見され、残り3人は裁判にかけられてうち2人はガス室に送られた。
 
この事件で看守も2人が死亡し、約18人が負傷した。1962年6月11日、フランク・モリスとアングリン兄弟が監房から消えるという有名な脱獄事件が発生した。手製のドリルで通気孔が広げられており、夜の見回り時に気付かれないよう、ベッドには作り物の人間の頭が置かれていた。壁の後ろのパイプなどを伝って建物から脱出し、島の北東部から泳ぎ出したと見られているが、
現在も島外にたどり着いたかは不明であります。

1963年3月21日、財政的理由により連邦刑務所は閉鎖されてしまいます。
修繕・維持費用だけで300万ドルから500万ドルかかったとされ、それに加え日々の運営費用も他の連邦刑務所と比べ可なりの高額であった(1959年当時、1人当たりのコストはアトランタ刑務所で3.00ドルであったのに対しアルカトラズでは10.10ドルに上った)。これは、食糧や水の輸送供給に費用がかかったためであると言われて下りますが、真実はわかりません。
 

絶対に脱獄不可能と思われていた、アルカトラズ刑務所からの脱獄に成功した、
囚人の行方は未だ謎です。

憶測では、冷たい海の温度と速い流れに耐え切れず、溺れ死んだと言われて下りますが、死体を未確認ですので、本当の事は現在でも闇の中です。タイプ少し違うのですが、
この刑務所をモデルケースに全米各地で、厳しく過酷な状況にさらされる、
刑務所が多数誕生したのですが、アルカトラズ刑務所を超える刑務所は無いとおもいます。

IQ200のアル・カポネ(アルフォンス・ガブリエル・カポネ)すら脱獄を諦めて刑期を努めたと聞いたことが、あります。まさに、地獄の連邦刑務所がアルカトラズ刑務所だったんですね。
 
 

2014年4月19日土曜日

Henry Lee Lucas

Serial Killer 連続殺人犯の紹介のコーナーです。第5回目の今回ですが、
ご紹介するSerial Killerも大変、興味深い奴ですよ。Henry Lee Lucasの登場です!!

全米17州で300人以上を殺害していると言われる。
著名なシリアルキラーの1人であり、
トマス・ハリスの作品に登場する連続殺人者、
ハンニバル・レクター(羊たちの沈黙)のモデルの1人です。


ヘンリー・リー・ルーカスは1936年8月23日、アメリカバージニア州ブラックスバーグに生まれた。
母親のヴィオラはアイルランド系インディアンの女で、売春婦をしていた。

父親のアンダーソンは、酒に酔って列車に轢かれ、両足を失った貧弱な元鉄道員であった。
ヘンリーは11番目の子供であり、ヴィオラは女児が生まれてくることを期待していた(娘が生まれれば、母娘で売春が出来ると考えていたため)。

だがヘンリーが男児であったことに失望する。
ヴィオラは息子を「ヘンリエッタ」と名付けて女装をさせたり、意味も無く殴りつけたり、
自身の客を家に呼んでヘンリーの前で性交し、それを見るように強要するなど、
執拗に虐待を繰り返していた。

ヴィオラはしばしば「お前は死ぬまで私の奴隷」「あんたは悪魔から生まれた生き物なのだから、
当然あんたは悪魔なのだ。腐ったろくでなしとして生きてもらう」
「あんたはこの世に地獄をもたらすために生まれてきた」と、ヘンリーを罵倒した。

ヴィオラ以外の人物にヘンリーが優しく接せられると、ヴィオラは激しく怒り、
ヘンリーに優しくした本人を口汚く罵った。小学校の高学年になったとき、
ヘンリーはラバを飼いたがってた。

ヴィオラが珍しくラバの子供を買ってきてヘンリーに与えたことがあった。
ヘンリーは喜び、寝食も共にするほど気に入り、ラバもヘンリーに懐いた。

ヴィオラがヘンリーに、ラバが気に入ったかどうかを尋ね、ヘンリーが気に入った旨を告げると、
そのラバを射殺した。おふくろは、俺が何かを愛するという感情を抱くことに我慢ならなかった,
「おふくろは完全な狂人だった」と告白しており、
ヴィオラが人格的に異常であったことは明らかであった。

ヘンリーは10歳で酒の味を覚えたが、それは父親の影響であった。
父親もまたヴィオラから罵倒されたり虐待されていた。そればかりか、
アンダーソンは彼女から虐待されるのが好きであった。

ヘンリーは後に、「本当の親父だったかどうかも分からない」「汚らわしいマゾだった」などと語っている。14歳ではじめての殺人(17歳の少女をレイプして絞殺)を犯した。

最初の殺人は、ヘンリーにとって最悪のものであった。
母による激しい虐待と、女性に対する彼の意識が彼を大きく歪ませ、
女性とセックスに対して激しい憎悪を抱くようになった。

23歳まで出所と服役を繰り返すが、同年に義姉の元で恋に落ちた。
ヘンリーは彼女と生きていくことを決め、まともに働こうとした。

だが、母親がヘンリーの元に現れ、口汚く罵ったことで恋人は彼の元を立ち去り、
ヘンリーは再び独りになった。


ヴィオラの悪罵に耐えかねた彼は、母の喉を自らナイフで切り裂いて殺害した。
彼は逮捕され、第二級謀殺罪により40年の刑を宣告された。

しかし、彼自身は「おふくろが本当に死んだ」とは思ってはいなかった。
長年ヴィオラに虐待されたことで、ヘンリーの精神は骨の髄まで母の支配下にあった。

刑務所の中でも、ヴィオラの声が何度となく響き、ヘンリーに自殺を強要してくる幻聴に苛まれた。これによりヘンリーは乖離症状を繰り返し、精神分裂病と診断された。

ヘンリーは自身を診察した医師に対して、「セックスの際に相手を殺さなければ絶頂に達することができない」という証言をしている。

ヘンリーは仮釈放を望まなかった。
だが、囚人一人に掛かる年間の費用が多額であったことと、当時のベトナム戦争が泥沼化していたことで、国の財政が逼迫していたことから、司法当局は「更生の見込みのある犯罪者には、
可能な限り社会復帰のチャンスを与える」という名目で、早期釈放を推進していた。

収監されてから10年後、ヘンリーは仮釈放されることになった。
獄中で電気技師の資格を取得したことや、大学レベルの教育プログラムを無事修了したことなどが評価されたためであった。

仮釈放委員会で「釈放されたら、自分は必ず人を殺す」と明言していたにもかかわらず、
彼は釈放された。仮釈放審査の面談で委員のひとりから、「君は釈放されたら本当に人を殺しますか?」と尋ねられたヘンリーは、「はい。私は釈放されたら間違いなく人を殺します」と言ったが、
委員たちはこれをジョークと受け取った。

そしてヘンリーは、自らの予言通りに、
刑務所を出て数ブロックのところで女性を絞殺し、金品を強奪した。

釈放後の1979年、ヘンリーはオーティス・トゥールという男と出会う。
オーティスは下品で野蛮な男であったが、彼と出会ってから紹介されたベッキーという少女に、
ヘンリーは強く惹かれていった。ヘンリーと行動を共にし、無条件でヘンリーを受け入れるベッキーの髪の毛をといたりするなどして、ヘンリーは彼女を愛し始めた。

彼女に対してセックスは求めず、性的衝動が高まると、別の女性を襲って殺害してからベッキーの元へ戻ってきた。だが、後にベッキーがキリスト教に目覚めたことがきっかけで2人の間に溝が生まれる。後にヘンリーはベッキーを殺害したが、そのことをひどく後悔した。

ベッキー殺害後のヘンリーは、犯行後に証拠を残すようになった。
1983年の逮捕後、ヘンリーは約3000件の殺害を自供しているが、
一般的に実際に殺害したのは360人程度と考察されている。

ただし、ヘンリーには虚言癖があったとされるためにこの数字にも根拠は無い。
ヘンリーは後にモンタギュー郡拘置所の独房の中でキリスト教に目覚め、
テキサス州ウィリアムソン郡ジョージタウン刑務所にて、それまでの罪を進んで自白するようになった。それは、彼が犯した殺人のために冤罪で逮捕される人を救うためであるというが真実は定かでない。殺人罪が確定しているのは9件で、物的証拠があるのは2件のみである。

彼の死刑は1998年に執行されるはずだったが、当時のテキサス州知事だったジョージ・W・ブッシュが、証拠不十分を理由に死刑執行を延期した。

当時ブッシュの手元には153人分の署名できる死刑執行書があったが、
ブッシュは任期中に152人の死刑を執行した死刑執行推進派であり、
まさに異例中の異例であった。



毒殺以外のありとあらゆる殺しを行ったと彼は語っている。
「ヘンリー・ルーカス連続殺人事件特別捜査班」の正式メンバーとして、
鉄格子の中から助言を行っていたが、2001年、テキサス州ウィリアムソン郡ジョージタウン刑務所内にて心臓発作で死亡。64歳没。遺体を引き取りに来た身内はいなかった。

最後にこの凶悪的精神疾患連続殺人鬼のHenry Lee Lucasが
吐き捨てた名言集です。

女は存在する必要がない。だから見つければ全て殺す。

要するに俺はいいことをしたって訳さ。殺人は息をするのと同じだった。


俺にとってセックスは最悪のものだった。俺を自然のままに受け入れてくれる奴などいなかった。


セックスしたけりゃ力ずくだ。殺すしかない。人間?それは俺にとってなんでもなかった、ただの白紙だった。


2014年4月3日木曜日

R.L. (from Next) / Important (2007 Advance CD)

今回は、NextのR.L.のソロ2nd 残念ながらお蔵入りしました。
Importantに付いてご紹介します。

Nextは3人組R&Bグループです。Butta Love、Too Close等の大ヒットを放った下ります。
そのNextでリードを取っていたのが、R.L.です。

2002年にアルバムRL:Ementsでグループからでソロ・デビューし、
2007年ごろにMusic World/Universalから本作をリリースする予定でしたが…
いまだ発売されて下りません完全にお蔵入り状態です。
全10曲収録で、MidTempo、Slow Jamが大半を占めて下ります。

Someone To LoveはNe-Yo"So Sickの様な切ないメロが印象的な仕上がりで最高です。
Bucked NakedはThe Cornaboyzがプロデュースしたノスタルジックな雰囲気です。

Used To Beは本当にしっとり美しいミッド・ナンバーに仕上がって下ります。
ShareはR&Bの世界では定番の水滴の効果音がアクセントになった下ります。
Missin' Uは少し変わったバックトラックですが、綺麗なSlow Jamです。

Girl Come Onはムージー・ダンサー系の夜のドライブのおともに最適なミッドナンバーですね。
NothingはNextの曲と錯覚する程の極上ですね。

So SorryはTim & Bobが最も得意とするような遊牧民系トラックが極上です。
Stormは最後を締めくくる雷鳴轟く究極のSlow Jamです。

全10曲と曲数は少ないですが、それを補う極上ナンバー揃いですので、
興味がある方は、是非、探して購入を薦めます。
間違いない内容です。お蔵入りが本当に残念な1枚ですね。
 
1. Someone To Love
2. Bucked Naked
3. Used To Be
4. Share
5. Missin' U
6. Girl, Come On
7. Nothing
8. Sex As Good As Mine
9. So Sorry
10. Storm (Forecass)