昔は灯台、軍事要塞、軍事監獄、そして1963年まで連邦刑務所として使用されて下りました。
別名ザ・ロック、監獄島とも呼ばれています。1972年、国立レクリエーション地域となり、
1976年及び1986年にランドマークの指定を受けて下ります。
1775年、スペイン人のフアン・デ・アヤラがこの島を発見し、サンフランシスコ湾の海図を作るときにこの島に "La Isla de los Alcatraces" と名づけた。スペイン語で「ペリカンの島」という意味です。
これがやがて英語風に短縮されて "Alcatraz" となったと言われて下ります。
メキシコによるカリフォルニア統治時代の終わりころ、メキシコ政府から、ジュリアン・ワークマンという帰化メキシコ人に、島に灯台を建設する条件で島の所有名義が譲渡された記録があります。
米墨戦争(1846年 - 1848年)中にアメリカがカリフォルニアの支配権を得ると、ジョン・C・フレモントが、「カリフォルニア総督」としての資格でこの無人島を購入した。しかし、1850年、ミラード・フィルモア米大統領の命により、メキシコ政府の所有物はアメリカ政府に承継されたとの根拠に基づき、島は軍事目的のために取り上げられた。このため、フレモントによる島の購入は無意味になってしまい、フレモント及びその相続人から政府に対して何度も訴訟が起こされ、
法的紛争は1890年代まで続いたらしいです。
1848年、シエラネバダ山脈の麓で金が発見されてゴールドラッシュが始まり、サンフランシスコは多くの船が寄港する重要な地となり、灯台が至急必要になった。
1850年の連邦議会予算に、アルカトラズ島を含む太平洋岸の八つの灯台建設が盛り込まれた。1852年に、島で最初の恒久的建造物となる灯台ができた。1853年には、ゼラス・B・タワー中尉が、アルカトラズ島をサンフランシスコ湾の守りとするための要塞化工事に着手した。
南北戦争(1861年 - 1865年)の直前までに、86門の大砲が島を巡らすように設置された。
南北戦争中は、アルカトラズ島は南部連合のサンフランシスコ湾への侵入を防ぐ役割を果たしました。南北戦争が終わると、島に設置された旧式の大砲は時代遅れになってしまったため、
徐々に撤去された。それに代わって、防弾壁が島を取り囲むように建てられた。
内部には弾薬庫などが設けられていました。
南北戦争の前後から、島は監獄としての役割も果たすようになります。
地下の留置場に、島内や周囲の砦から送られた脱走兵、窃盗犯、酔っ払いなどが収容され、
1861年、アルカトラズ島は太平洋省の軍事刑務所として正式に指定されました。
南北戦争中には、反逆罪で捕らえられた南部連合派のカリフォルニア市民もここに収監された。
収容者は増加し、1863年ころロウアー・プリズン (Lower Prison) と呼ばれる刑務所棟が建てられ、
19世紀末ころまで平均100人を収容して下りました。アメリカの西部開発に伴って、
アメリカ政府とアメリカン・インディアンとの紛争が多発し、反乱罪などでアルカトラズ島に送られたアメリカン・インディアンも多かったと聞いた事がありますね。
米西戦争(1898年)の時は、フィリピンへの遠征で熱帯病に罹患した帰還兵がアルカトラズ島の病院に収容されたり、身柄を拘束された兵士が多数収監されたりした。新たな刑務所棟が必要となり、1900年、閲兵場にアッパー・プリズン (Upper Prison) が建設されました。
ロウアー・プリズンは囚人の運動場となったが、1902年の火事でロウアー・プリズンは危うく焼けるところであったらしいです。1906年、サンフランシスコ地震で街が壊滅し、市内の刑務所に火災の危険が迫ると、そこにいた一般の受刑者176人が急遽アルカトラズ島に移された。
このころから島は本格的な刑務所へ転換することとなり、今までの歩兵に代わり軍看守が配置され、1907年には島は「アルカトラズ島・合衆国軍事刑務所太平洋支所」との指定を受けました。
砦は取り壊され、1912年に3階建ての大型監房棟が島中央にでき、合計600の監房、厨房、食堂、
病院、運動場、管理事務所などを備えた大刑務所となります。発電所も建設されて下ります。
1915年、島は「合衆国矯正兵舎太平洋支所」と改名され、教育と更生に力点が置かれるようになります。受刑者は、軍事訓練、矯正教育、職業補導などを受けた上、刑期満了後は、
多くは軍務に復帰しました。
処遇は開放的で、夜間は監房に収容されるが、昼間は各自の仕事、授業、レクリエーションで時間を過ごし、規律違反の場合は独房に収監されたり鎖につながれたりした様です。
しかし、立地上、島内への水と食糧の供給にコストがかかったため、1930年代初頭の大恐慌もあって、軍は1933年、アルカトラズ島の刑務所を閉鎖することとなってしまいます。
その後は、かの有名な連邦刑務所としての時代に突入していきます。
治安当局は、犯罪に対する強い姿勢を打ち出す必要があり、アルカトラズ島はそのために
1934年4月から、脱走対策を万全にするため、軍事刑務所の設備に手が加えられた格子は柔らかい素材から、道具を使っても破壊できないものに取り替えられ、受刑者が逃げ隠れできる可能性のあるトンネル等はすべてセメントで埋められた。監房を取り巻くように、看守が武器を持って監視できるガン・ギャラリーが、受刑者の手が届かないよう高いところに設けられます。
どの監房も建物の外壁とは接しないようになっていたいるのが最大の特徴ですね。
アルカトラズ刑務所への移送を希望する受刑者が多数いました。
アルカトラズ島に服役した受刑者の中には、有名な者も多いですね。
ロバート・フランクリン・ストラウドは、殺人罪でカンザス州レブンワースの刑務所に服役中に看守を殺して死刑判決を受けた後、嘆願により1920年終身刑に減刑され、1942年アルカトラズ連邦刑務所に移送され、1959年他所へ移送されるまでの17年間をここで過ごしました。
レブンワース刑務所でカナリアを飼ってその病気について研究し、本も書いていたことから「バードマン」(鳥人間)というあだ名で知られたが、同刑務所で、研究の名目で手に入れた道具を酒の密造に使おうとしていたことが発覚するなどしてカナリアの飼育が禁止され、アルカトラズ時代には鳥を飼ってはいなかったらしいです。
著名なギャングの大ボス、アル・カポネやジョージ・“マシンガン”・ケリーなどもここに収容されてい下りましたのは有名な事実ですよね。そのほか、他の刑務所で規則を遵守しない者、
脱走の危険があると考えられた者などがここに送られた来たのも有名な話ですね。
刑務所の中では、食糧、衣服、居住、医療の四つは権利として与えられていたが、
それ以外のもの仕事、面会、図書室の利用、レクリエーションなどはすべて「特典」であって、
努力によって獲得するものとされて下りました。本当に厳しい環境の刑務所ですね。
その過酷な環境に耐え切れず、信じられないような事件が幾度もおきます。
連邦刑務所時代には、14回の脱獄事件が起き、それに関与した受刑者は36人である(うち2人は2回脱走を試みた者)。このうち23人は身柄を確保され、6人は射殺され、2人は溺死した。
現在も島外にたどり着いたかは不明であります。
1963年3月21日、財政的理由により連邦刑務所は閉鎖されてしまいます。
修繕・維持費用だけで300万ドルから500万ドルかかったとされ、それに加え日々の運営費用も他の連邦刑務所と比べ可なりの高額であった(1959年当時、1人当たりのコストはアトランタ刑務所で3.00ドルであったのに対しアルカトラズでは10.10ドルに上った)。これは、食糧や水の輸送供給に費用がかかったためであると言われて下りますが、真実はわかりません。
絶対に脱獄不可能と思われていた、アルカトラズ刑務所からの脱獄に成功した、
囚人の行方は未だ謎です。
憶測では、冷たい海の温度と速い流れに耐え切れず、溺れ死んだと言われて下りますが、死体を未確認ですので、本当の事は現在でも闇の中です。タイプ少し違うのですが、
この刑務所をモデルケースに全米各地で、厳しく過酷な状況にさらされる、
刑務所が多数誕生したのですが、アルカトラズ刑務所を超える刑務所は無いとおもいます。
IQ200のアル・カポネ(アルフォンス・ガブリエル・カポネ)すら脱獄を諦めて刑期を努めたと聞いたことが、あります。まさに、地獄の連邦刑務所がアルカトラズ刑務所だったんですね。