2014年5月25日日曜日

POGO THE CLOWN

Serial killer連続殺人犯のコーナーです。
第6回目の今回は、死して尚、人気を博す、ジョン・ウェイン・ゲイシーをご紹介します。
 
POGO THE CLOWN

先ず、ジョン・ウェイン・ゲイシーとは世界的に有名で知名度もバッグンですが、
学者や芸能人では無いです。

Serial killer連続殺人犯です。それでは、何故?彼が現在も崇拝されているのでしょう?
その事に関して今回は紐解きたく思います。


ジョン・ウェイン・ゲイシー (John Wayne Gacy)は1942年3月17日イリノイ州シカゴのポーランド系移民の家庭に生まれます。父親である叩き上げの熟練機械工、ジョン・スタンリー・ゲイシーは貧しさの中で育ち、人には負けない、弱みを見せてはならないという人生哲学を持っていました。

彼には、脳内の手術が不可能な部位に腫瘍があり、発作的な癇癪を起こすなどその情緒は極めて不安定で、やり場の無い怒りが突如湧き上がることもあり、しばしば自分の家族に矛先を向けていたと伝えられて下ります。はじめての一人息子(ジョン・ウェイン・ゲイシー)に期待を込めて、
西部劇で人気を博したアメリカ男性を象徴する名優ジョン・ウェインの名を授けたが、
生まれたばかりの息子に心臓疾患があると判明した途端に失望して見限ってしまいました。

これが、ジョン・ウェイン・ゲイシーには悲惨で過酷な運命の始まりです。
父スタンリーに対するジョンの幼い頃の記憶は躾や礼儀作法に厳しく、小さな失敗をしても革砥で打擲されるというものが多く、スタンリーから徹底的な虐待を受けていました。

スタンリーは身体の弱い息子をことあるごとに「クズ」「間抜け」「オカマ」「お前はホモになるのさ」となどと常に責め立て、肉体と精神の両面で痛めつけました。

このためにジョンはパニック障害や心臓発作を頻繁に起こすが、
彼は罵倒されるのが嫌でストレスや体の不調を我慢して必ず失神し、
そのたびにスタンリーは息子を激しく罵ったらしいです。
失神の直接の原因は病院では分かりませんが、ジョンを診察した医師は
「再発性の失神症」と診断して下ります。

母が夫に対し息子の体をいたわって欲しいと懇願すると、スタンリーは「あのガキは親の気を惹いてやがる」と鼻で笑ったらしいです。相当に、酷い親父ですよね。
その後のジョンは14歳から18歳までの間、1年以上の入院治療と、
高校を4つ変わったことで普通高校を落第となります。

その後職業訓練校に編入し優秀な成績を上げたことで、怠学補導教官の助手として事務室で働くように勧められています。この頃のジョンは、父スタンリーの気を惹くように、スタンリーお気に入りの民主党立候補議員の応援をする様になります。だけど、兵役審査で病歴があったことで免除になると父は息子を再び罵倒するようになっていきます。

ジョンが18歳の時、当時の女友達と性交に及ぼうとするも意識を無くしたらしいです。
それを知ったスタンリーは、「お前の中のオカマが登場した」と罵倒をしました。

最終的には家を追い出されたが、それでもジョンは自身を罵倒し続けた父親を心から愛しており、いつか父親に認めてもらおうと一生懸命に働き続けました。
弱小時代の彼は健気で真面目な印象ですよね。

その彼が、何故?Serial killer連続殺人犯に変貌を遂げたのか?
1962年、ゲイシーは父の車を貸してもらおうとして口論となり、「タイヤの空気を入れてくる」と言い残しラスベガスへ家出し、母が引き取りに来るまでの3ヶ月間葬儀屋のアルバイトを勤めた。

昼間はここで死体に防腐処置を施すための血抜きを手伝い、夜は死体を安置している処置室の隣に置いてある簡易ベッドで寝起きしていました。後に「その頃のゲイシーは若者の死体を見ると胸が疼き、それも少年の死体だと、異様な感覚に支配され、仕事に慣れてくると、自分の気に入った少年の死体が入った棺の中に潜り込み、死体の皮膚に身を寄せていた」という話がマスコミによって作り上げられるが、ゲイシー自身はこれを否定しています。

ゲイシー本人によると、死体置場には住んでいたが、死体と一緒に寝ていたことや
死体と性交していたというのは大嘘であり「馬鹿馬鹿しい」と一蹴しています。

その後シカゴへ帰郷したゲイシーは、ビジネスの専門学校へ進んだ。
卒業後は大手靴販売店のセールスマンとして就職。

入社して間もなく抜群の営業成績を上げたことで、若くしてエリアマネージャーに抜擢されました。
ここまでの彼は出世していますよね。然し、徐々に変わりだしていきます。

ゲイシーは青年会議所(United States Junior Chamber)の有力会員でもあり、会議所の貯蓄販売券の販売でも優秀な成績を残し、その2年後には州全体で3番目の活動実績を挙げたとして第一部長に就任している。1964年にはマリリンという女性と結婚してアイオワ州に移った。
そこで妻の父親が所有していたケンタッキーフライドチキンの3店舗のマネージャーを兼任するようになり、ビジネスに地域活動に八面六臂の活躍をし、
人望も厚かったゲイシーは青年会議所の次期会長選出が確実視されて下りました。

ビジネスマンとして多忙を極める中にあっても1年間で青年会議所の多数のプロジェクトを立案・実行にあたる。また、地元でのボランティア活動にも積極的に加わり、常に精力的に動き回るゲイシーをいつしか周囲は「眠らない男ゲイシー」と畏敬の念をこめて呼び、
会頭候補にまで登り詰めた。これほど働いたのは、父スタンリーに自分を認めてもらいたいという彼なりの愛情でもあったと思います。

しかし1968年に少年への性的虐待の罪で服役することになる。
その間にマリリンが離婚を提訴し、受理されたことで結婚生活は終わりを迎えます。

ゲイシーは結婚する少し前、一緒に酒を飲みに行った男と無意識のうちにオーラルセックスに耽ったと言われて下ります。ゲイシーは、父スタンリーから言われ続けてきたことが現実のものとなったことに深い恐怖と嫌悪を抱いたらしいです。
その3年後、青年会議所会員の息子で15歳になるドナルド・ヴァリューズを「ポルノ映画を観よう」と誘って、地下室で関係を持つ。事が済んでからゲイシーはヴァリューズに金を払ったが、
その後もヴァリューズはゲイシーのもとをしばしば訪れ、
何かと理由をつけては金を要求するようになった。
ゲイシーはそのたびに金を支払い、性交した。

そして、会頭選挙を目前に控えたゲイシーが反自然性交の容疑で逮捕されたのは、
このヴァリューズが訴えたためであります。

実刑判決を受けて収監されるが、わずか7ヶ月で高校卒業の資格を取り、
さらに大学の通信教育で心理学などの単位を取得する。

また刑務所内の青年会議所の法律相談員として、待遇の改善に関する、
2つの法案を州議会に通した。
模範囚としてその態度を買われたゲイシーは懲役10年の判決にもかかわらず、
わずか16ヶ月で出所となり、イリノイ州に戻った。

だが、服役中の1969年、父スタンリーが肝硬変で死去し目標を失ったのが、
連続殺人を犯すストレス要因になります。


いよいいよ、Serial killer連続殺人犯のPOGO THE CLOWN誕生の瞬間が訪れます。
釈放から半年後、ゲイシーは少年に対する暴行容疑で再逮捕されます。

しかし、原告が裁判に姿を見せなかったことで不起訴となります。
その秋より、ゲイシーはパーティーで知り合った少年をあさるようになっていきます。
その翌年の1月のある夜、自分の「拾った」青年とベッドをともにする。早朝に目を覚ますと、
その青年がナイフを持って立っているのを見てパニックを起こし、格闘の末刺し殺してしまった。

青年はゲイシーのためにサンドイッチを調理しており、彼はナイフを持ったままゲイシーを起こそうとしたのだった。これに大きく混乱したゲイシーは死体を床下に隠して下ります。
これ以降、殺人が習慣となっていきます。殺人に魅力を感じていく様子が伺えますね。

軽食堂のコックをしながら、室内装飾や増改築などを専門とする軽建築業で身を起こすことを決意したゲイシーは貯金に励みながら事業計画を練り上げ、1971年にシカゴのノーウッド・パークの近くに家を購入。そこを拠点に、満を持して自分の建築ビジネスを興した。
持ち前の勤勉さで会社を軌道に乗せると、高校時代から知っているキャロルという女性と結婚、
彼女の連れ子二人も共に暮らし地域でも尊敬される存在となっていった。

休みには道化師「ポゴ」に扮し、福祉施設を訪れるなどして子供たちの人気者となる。
さらに地元民主党のメンバーとなり、パーティー会場で時の大統領ジミー・カーターの
妻と握手している写真が残されています。


この件について、性犯罪者であった人物と会わせてしまったとしてシークレットサービスの調査能力の無さが非難されました。

ゲイシー本人によると、彼の意識障害はある種の健忘を伴って現れるようになり、
道化師ポゴを始めたのはポゴに変身しているときは安らぎを得る、
ことができたからと言って下ります。

ゲイシーは少年たちを家に誘って強姦した後に殺害した。
被害者を誘う手口は「ポルノを観ないか」と誘って地下室に連れ込み、
手錠を掛けて動きを封じ凶器で脅しながら性交し、
その後首を絞めて殺害するというものであった。

死体は床下に埋葬しその上に石灰を撒く。時には塩酸をかけることもあった。
1975年の末にキャロルと離婚。その後、ゲイシーの犠牲者は一気に増えていきます。

まるで映画の様な話ですが全て事実です。
弱小時代の精神的な虐待が人間を破壊して壊滅に追い込まれるのが伝わると思います。
1978年、ゲイシーの会社のアルバイトの面接へ行ったまま行方不明になった15歳の少年、
ロバート・ピーストの行方を追っていたデス・プレーンズ警察の警部補ジョゼフ・コゼクサックが
ゲイシーの家を訪ねた際に様々な遺留品があることに気づいた。

遺留品の他に『偉大なフェラチオ』『アナルセックス』などのゲイポルノや、使用した痕跡が残った肛門用バイブレーターも発見したが、それ以上に彼を圧倒させたのは家全体を覆う異様な臭気だった。コゼクサックはゲイシーがただの実業家ではないことを悟った。

事実、ゲイシーは以前から警察による厳しい追及を受けていたが、時には地元の有力な民主党員であることを笠に着て、逆に警察の24時間による監視捜査を「人権侵害」だとして民事訴訟を起こすなど、のらりくらりとかわし続けました。この辺りは、流石に知能犯的な行動ですよね。

その頃のゲイシーは一方通行の道を逆走するなど、異様な行動が目立っていたのだが、
ゲイシーを監視するチームの責任者、ウォーリー・ラング部長刑事はそういった微罪ではなく、

より大きな罪で逮捕しようと決めた。

やがてガソリンスタンドでゲイシーが顔馴染みの従業員にマリファナを渡していたことを、
部下の聞き込みで知ると、ゲイシーを麻薬不法所持の現行犯で逮捕することにした。

これによりコゼクサックは家宅捜索令状を手に入れ、ゲイシーの自宅に入りました。
自供を受けてゲイシー宅の強制捜査が行われた結果、29人は石灰で覆われた、
家の床下から発見されました。

死体は床下できちんと整頓されたように埋められていた。
他の4人は床下にスペースがなかったので近くのデス・プレーンズ川に、
捨てたことが明らかになった。ロバート・ピーストの遺体もそこから引き揚げられた。

被害者の多くは男娼であり、数人は彼の会社でアルバイトをした10代の青年、最も若かった犠牲者は9歳で、20歳の元海兵隊員の青年が一番年齢の高い犠牲者であった。

状態が悪かったために身元がわからない遺体も9体あったのは事実の話ですよ。
床下に埋められた死体は全てが腐敗しきっており、
発生していたメタンガスに現場の警官たちは激しい目眩と吐き気を覚えた。

余りに腐臭が凄まじく、一度臭気に触れた衣服は臭気が染みついて洗浄不能になったうえに衛生面でも危険とされたため着用不可能となり焼却処分された。

さらに、土中に埋められていた死体が空気に触れたことで再び腐り始めた。
衛生局の分析で命に関わる危険な物質が大量に発見され、
さらには毒性の強い細菌が検出された。このため郡は現場の捜査員たちに、
作業用に使い捨てのジャンプスーツを支給し、傷の自己申告を徹底させ傷を申告をした捜査官を現場から外し、全員に髭を剃ることを禁止した。

警察署の死体保管所はガス室と化していました。
この死体の捜索と分析は強烈な悪臭と病気の感染との戦いとなり、命を落としかねない危険を伴ったと言われて下ります。その後、ゲイシーは精神鑑定のため、シカゴのセルマック精神病院の犯罪精神科病棟に移送されました。そして「私の中には4人のジャックがいます。

全員のことを詳しくは知りません。家であったことはすべて4人目のジャック"ジャック・ハンリー”が行ったことなのです」と証言しました。

ゲイシーによれば、彼の中の4人のジャックがゲイシーの肉体をコントロールし、その間の記憶は全く無いのだという。1人目のジャックは、酒と麻薬をやってから少年を漁りに出かけ、少年を車に連れ込んでセックスをする。そうした中で2人目のジャックが現れ、
行為が終わると裸のまま車外に放り出し、そのまま逃亡しては楽しむという。
俺は殺人課のベテラン刑事であるとゲイシーに語っていたという。

2人目のジャックが引っ掛けた少年を、自宅まで無事に届けるのがこの3人目のジャックで、
心優しい警察官であるという。そして、3番目のジャックが少年を諭しているときに突然現れて、
手の届かないところへ少年を連れ去っていくのが4人目のジャックであると自供しています。

ゲイシーは、多重人格症として診断されることに全力を尽くしました。
1980年2月6日から始まった公判で、ゲイシーは自分が多重人格であることを主張し続け、
無罪を訴えた。だが陪審は訴えを退け有罪評決を下した。

33人の若い男性を殺害した理由に多重人格を持ち出しても「詐病」であるとされた。
1980年に12回の死刑判決と21回の終身刑判決を受けたが、数百万ドルに及ぶ莫大な資産を利用して、20回以上の上訴と模範的な服役生活により刑を免れ続けてきた。

また自分を妬む人や警察の陰謀であるとして冤罪を主張し、死刑制度の違憲性を訴えて上告を繰り返した。これにアメリカ国内で非難が集中し、いち早い死刑執行を願う人たちがデモ活動を行った事もあると言われて下ります。

ちなみにゲイシーの証言を得たのは1978年9月27日。
コロンバス・シティズン=ジャーナルが、ビリー・ミリガンの事件について、ミリガンが10の人格を備えていることを一面トップの記事にした3ヵ月後の事であります。

ゲイシーを心理学的に鑑定した臨床医は、彼のIQはかなり高く、神経学テストを初めとする7種類のテストでも、脳障害の兆候は見られなかったと診断する一方でロールシャッハテストや主題統覚検査では異常を感じさせる反応を示し、心理面の安定をみるミネソタ多面人格目録(MMPI)でゲイシーが極めて異常であり、思考の混乱から精神分裂かもしくは妄想症の可能性が強い、
とされ、この検査結果では、ゲイシーは「自分を有利にしようと動いている訳ではない」ということが認定された。

元スタンフォード大学行動科学課長及び研究センター会長ローレンス・フリードマンは、ゲイシーを極めて凶暴で歪んだ性欲に巻き込む人格相として存在しているとした。

ゲイシーのトラウマをアルコールに耽っていた父親と現在までに及ぶ本人自身の発作によるものと指摘、幼い頃から彼を責め苛み続けた心身症と神経症が彼の犯罪性を作り上げる土壌となったと証言した。だが「このような症例を罰するか罰しないかの判断は、
法と社会の境界上の問題であり、心理学の立場からは言及できません」とも話した。

ゲイシーの異常さは学問的に証明はできても、それが33人の人間を殺害する確たる理由にはならないとしたのであります。


そんな中、自分に興味を持ち手紙を送ってきた、ジェイソン・モスという当時18歳の少年と文通を始める。ゲイシーは後に彼の電話番号を突き止め、電話でのやりとりを行うようになった。

その後、少年に「人殺しをした本当の理由を教えてあげる」と刑務所に招待し面会することになった。しかし情欲を抑えきれなくなったゲイシーは、彼を34人目の被害者にしようと企む。

模範囚としての信用を利用して看守抜きでの面会(本来は規則違反)を取り付け、
少年と2人きりでの面会が叶い彼を監視カメラの死角に誘い出して犯行に及ぶも、
間一髪で看守が通りかかったことで未遂に終わった。この犯行が決定的となり、
再審請求は取り下げられました。
一度、連続殺人犯に変貌を遂げると、殺人の欲求に歯止めが利かないのでしょうね。

これが、彼の最後に繋がっていきます。いよいよ、POGO THE CLOWNの最後の瞬間です。
1994年5月10日深夜、薬物注射による死刑がジョリエット刑務所にて執行された(この一件は日本のテレビ番組で幾度か取り上げられ放送されている)。彼が希望した最後の食事は、
ケンタッキーフライドチキン、フライドポテト、エビフライ、イチゴ、ダイエットコークなど、
若き日の成功を象徴するものばかりであった。通常、薬物注射による死刑は、
平均で7分前後で静かに絶命すると言われているが、何らかの手違いか薬効にムラが生じ、
ゲイシーは20分近く苦しんで絶命したという。

この件についてコメントを求められた担当検事のウィリアム・カンクルは「被害者が受けた苦痛に比べれば、ゲイシーの苦痛など大したことはないね」と述べたらしいです。


以上が、POGO THE CLOWN ジョン・ウェイン・ゲイシー (John Wayne Gacy)の真実の物語です。

最後に、POGO THE CLOWN とは、子供たちを楽しませるため、パーティなどでピエロに、
扮することが多かったことからキラー・クラウン(殺人道化・殺人ピエロ)の異名を持つ。

少年時代はボーイスカウトに入っていたこともある。アルバイト料の支払いなどの名目で呼び寄せた少年に性的暴行を加えたうえで殺害。その遺体を自宅地下および近くの川に遺棄した。

自身のホモセクシュアリティを隠すために殺害したとされている。1972年から1978年のあいだ、
少年を含む33名を殺害したことが明らかになっている。
資産家の名士でチャリティー活動に熱心だった彼の犯行は、
アメリカ社会を震撼させた連続殺人狂の殺人ピエロです。

彼の描いたピエロの絵画はマニアには大変な人気があり、展示会が開かれたり、
高値で取引されている。著名人では俳優のジョニー・デップが購入して所有しています。

ジョニー・デップもPOGO THE CLOWNの大ファンの一人として有名ですね。
俺も、ジョン・ウェイン・ゲイシーは大好きなSerial killerの一人です。

彼の生い立ちは悲しみと苦痛の日々だと思います。
幼いころから、実の父親に精神面の虐待を繰り返しさててきて、それに必死に耐えて我慢した、
精神が遂に、崩壊して、様々な人格が姿を現して、多重人格障害になる、様子がわかります。

日本でも、近年、虐待が色々な方面から問題になってきている、
昨今、ジョン・ウェイン・ゲイシーの様な連続殺人狂が誕生しても不自然な事だとは、
思わなくなる日も近いと俺は感じています。

もう一度、真剣に虐待やイジメ問題を考えていく時期だと思います。



R.I.P. POGO THE CLOWN John Wayne Gacy
1942年3月17日 - 1994年5月10日



2014年5月22日木曜日

Dynamic Five / Love Is The Key (1978)

Sweet Soul 名盤で尚且つ、入手が大変難しいと言われて下ります。
Dynamic Fiveの唯一のアルバムを今回は紹介致します。

Love Is The Keyは1978年リリースで、現在も数十万円で取引されている盤です。
全10曲収録と当時では、普通の収録曲数ですが、全曲一切の駄曲無しの素晴らしい作品です。

 
Dynamic Five / Love Is The Key (1978)
Label / Manhattan Records United Artists Records(UAS)

A1 Lovers Lullabye
A2 Skyboat
A3 To Get To Heaven
A4 It's So Lonely
A5 One Way Or The Other

B1 So Much Love To Give
B2 You Got To Get Up
B3 Beautiful Lady
B4 Supreme Being
B5 Love Is The Key

 

2014年5月14日水曜日

THE LIVE BAND / A CHANCE FOR HOPE (1982)

今から、20年以上前に、僕が、CLUBでDJをしていた頃に、お気に入りで、
毎回、廻していた、お皿です。

当時から、中々、レア度が高くて、内容が最高なのにお目に掛かれない盤では有名でした。

現在も、原盤レコードは、かなりの高額で取引されているのは事実の話です。

名作と謳われながら、未だ謎に包まれた名作、名グループというのは数多く存在します。
その筆頭が、今回、紹介する、THE LIVE BANDのA CHANCE FOR HOPE TSOBです。

ブラックミュージックの好事家のバイブル的な本で有名な『U.S.ブラック・ディスク・ガイド』にも紹介され、話題になることが多いのですが、メンバー、プロデューサーがまったくの無名です。

その後の活動もまったく不明という、謎だらけのグループによる唯一の盤で、大傑作なんです。
こういった謎を探ってゆく、想像してゆくのがブラックミュージックを愛聴してる。

僕の楽しみ方のひとつであったりするのですが、このアルバムは特に、
その想いを強く感じさせてくれます。

発売レーベルはTSOB (THE SOUND OF BROOKYLN) RECORDSになります。
1982年のニューヨークといえば、PRELUDEを筆頭にN.Y.サウンドが全盛期だったと記憶しています。当然ですが、このアルバムもN.Y.サウンドに影響を受けつつ、
ヴォーカル・インストゥルメンタル・グループ的サウンドでアップ、ミディアム、
スロウまで充実した内容を聴かせてくれて下ります。

マイナーながらクオリティの高いサウンド、しっかりとした演奏力、
熱いヴォーカルを繰り広げてくれるこのようなグループが、その後のグループ、メンバーの動向が一切不明というのも不気味な話だと思いませんか?
それもブラックミュージックの奥深い世界なのでしょうね。


1. A Chance For Hope (Prelude)
2. A Chance For Hope (Vocal)
3. Oh, How I Love You
4. We Are Live
5. Strut Your Stuff
6. Living Your Life
7. Serious Situation
8. A Chance For Hope (Reprise)

2014年5月3日土曜日

Jack Johnson

彼の作り出す音楽は、潮の香りと、大地の雄大さと、
暖かい太陽の様な素敵なオーガニック ミュージック!!
Jack Johnson 1975年5月18日、アメリカ合衆国 ハワイ州オアフ島生まれ。



アコースティック・ギターの心地よいグルーヴでリラックスした空気感のサウンドが特徴。
それまでハードコア・パンクが主体であったサーフ・ミュージック・シーンに新風を起こし、
今やミュージシャンやサーファー界など多方面から高い評価を受ける、
サーフ・シーンの第一人者として認知されている。

サーファー、映画監督、実業家、プロデューサーの顔を持つなど、ミュージシャン以外にも多様な才能を発揮して、全世界のサーファーには超有名人です。

Jack Johnsonは、少年期をハワイの海とサーフィンの中に過ごし、
既に高校生の頃にはプロ・サーファー契約を交わすまでになってい程のサーフィンの才能が開花していました。17歳の時、サーフィン中に大怪我を負う事故を経験したのを契機に、それまでは趣味のひとつであった音楽や映像といった創作分野に傾倒していく事になります。

その数年後に、University of California, Santa Barbaraで映像を専攻します。
そして、卒業後に、親友でトップ・プロ・サーファーのケリー・スレイター達のサーフィン仲間を被写体に撮ったサーフ・フィルム『シッカー・ザン・ウォーター』『セプテンバー・セッションズ』を製作。

リアル・サーフ・スタイルと高い評価を受けたその作品の中でも、特に評判だったのが、
ジャックが自作した劇中のBGMであった。

ジャックと共に映像製作をしていたカメラマンのスコット・ソーエンズなる人物の紹介でジャックと知り合ったG・ラヴは、彼の音楽的才能に着目し、自身のアルバム『フィラデルフォニック』にジャック製作の楽曲「ロデオ・クラウンズ」を収録するなど、ミュージシャンとしてのジャックの存在が注目されるようになります。

この「ロデオ・クラウンズ」はベン・ハーパーのマネージャーの耳に留まり、
ベンの経営するインディ・レーベルからCDデビューする運びとなった。

2001年に発表した1stアルバム『ブラッシュファイアー・フェアリーテイルズ』はインディーズでのリリースながら口コミで評判が広がり、翌年にはメジャーのユニバーサル・レコードより再リリースされ、全米でミリオン・セールスの大ヒットを記録します。

2003年にはビースティ・ボーイズなどを手がけたマリオ・カルダートJr.をプロデューサーに迎え、
ハワイでレコーディングされたセカンド・アルバム『オン・アンド・オン』を自身が立ち上げたレーベル
「ブラッシュファイアー・レコーズ」から発表。初登場で全米3位にチャートイン。

同年9月には朝霧ジャム出演で初来日し、同時に行った単独公演は即完売の盛況ぶりで、
すでに日本においても高い人気を獲得していた。

同じくサーファーでミュージシャンであるドノヴァン・フランケンレイターのデビュー作をプロデュースし、ブラッシュファイアー・レコーズにG・ラヴを迎え入れ、
また環境団体「コクア・ハワイ・ファウンデーション」を設立するなど、
多方面でマルチな才能を発揮するようになる。

さらに、フジロック・フェスティバル04には「フィールド・オブ・ヘヴン」のトリで出演し、
ベン・ハーパー、ドノヴァン・フランケンレイターをゲストで招いて共演していました。

2005年に発表した3rdアルバム『イン・ビトウィーン・ドリームス』はアメリカのみならずイギリス、
オーストラリア、カナダ、ニュージーランドといった英語圏全体でも大ヒットし(全英・全豪ともに1位)、世界的な評価を獲得しています。

およそ2年おきのペースでリリースを続けており、2006年には、絵本『ひとまねこざる (おさるのジョージ)』の映画音楽を手掛け、そのサントラである『シング・ア・ロング・アンド・ララバイズ・フォー・ザ・フィルム:キュリアス・ジョージ』を、2008年にはソーラー発電を動力にしてレコーディングした4thアルバム『スリープ・スルー・ザ・スタティック』、2010年の5作目『トゥ・ザ・シー』まで、すべてにおいて全米1位及び英豪チャートでも首位を獲得するなど軒並み好成績を記録する人気ミュージシャンです。

興味が沸いたら、迷わず購入を薦めます。
本当に最高の音楽がRecordから聴こえてきます。
元プロサーファーの極上オーガニックミュージック!!

2014年4月27日日曜日

アルカトラズ刑務所

アルカトラズ島は、アメリカ合衆国カリフォルニア州のサンフランシスコ湾内、サンフランシスコ市から2.4kmのところに浮かぶ、面積0.076km²の小島であります。
昔は灯台、軍事要塞、軍事監獄、そして1963年まで連邦刑務所として使用されて下りました。

別名ザ・ロック、監獄島とも呼ばれています。1972年、国立レクリエーション地域となり、
1976年及び1986年にランドマークの指定を受けて下ります。

1775年、スペイン人のフアン・デ・アヤラがこの島を発見し、サンフランシスコ湾の海図を作るときにこの島に "La Isla de los Alcatraces" と名づけた。スペイン語で「ペリカンの島」という意味です。

これがやがて英語風に短縮されて "Alcatraz" となったと言われて下ります。
メキシコによるカリフォルニア統治時代の終わりころ、メキシコ政府から、ジュリアン・ワークマンという帰化メキシコ人に、島に灯台を建設する条件で島の所有名義が譲渡された記録があります。

米墨戦争(1846年 - 1848年)中にアメリカがカリフォルニアの支配権を得ると、ジョン・C・フレモントが、「カリフォルニア総督」としての資格でこの無人島を購入した。しかし、1850年、ミラード・フィルモア米大統領の命により、メキシコ政府の所有物はアメリカ政府に承継されたとの根拠に基づき、島は軍事目的のために取り上げられた。このため、フレモントによる島の購入は無意味になってしまい、フレモント及びその相続人から政府に対して何度も訴訟が起こされ、
法的紛争は1890年代まで続いたらしいです。

1848年、シエラネバダ山脈の麓で金が発見されてゴールドラッシュが始まり、サンフランシスコは多くの船が寄港する重要な地となり、灯台が至急必要になった。

1850年の連邦議会予算に、アルカトラズ島を含む太平洋岸の八つの灯台建設が盛り込まれた。1852年に、島で最初の恒久的建造物となる灯台ができた。1853年には、ゼラス・B・タワー中尉が、アルカトラズ島をサンフランシスコ湾の守りとするための要塞化工事に着手した。

南北戦争(1861年 - 1865年)の直前までに、86門の大砲が島を巡らすように設置された。
南北戦争中は、アルカトラズ島は南部連合のサンフランシスコ湾への侵入を防ぐ役割を果たしました。南北戦争が終わると、島に設置された旧式の大砲は時代遅れになってしまったため、
徐々に撤去された。それに代わって、防弾壁が島を取り囲むように建てられた。
内部には弾薬庫などが設けられていました。


南北戦争の前後から、島は監獄としての役割も果たすようになります。
地下の留置場に、島内や周囲の砦から送られた脱走兵、窃盗犯、酔っ払いなどが収容され、
1861年、アルカトラズ島は太平洋省の軍事刑務所として正式に指定されました。

南北戦争中には、反逆罪で捕らえられた南部連合派のカリフォルニア市民もここに収監された。
収容者は増加し、1863年ころロウアー・プリズン (Lower Prison) と呼ばれる刑務所棟が建てられ、
19世紀末ころまで平均100人を収容して下りました。アメリカの西部開発に伴って、
アメリカ政府とアメリカン・インディアンとの紛争が多発し、反乱罪などでアルカトラズ島に送られたアメリカン・インディアンも多かったと聞いた事がありますね。

米西戦争(1898年)の時は、フィリピンへの遠征で熱帯病に罹患した帰還兵がアルカトラズ島の病院に収容されたり、身柄を拘束された兵士が多数収監されたりした。新たな刑務所棟が必要となり、1900年、閲兵場にアッパー・プリズン (Upper Prison) が建設されました。

ロウアー・プリズンは囚人の運動場となったが、1902年の火事でロウアー・プリズンは危うく焼けるところであったらしいです。1906年、サンフランシスコ地震で街が壊滅し、市内の刑務所に火災の危険が迫ると、そこにいた一般の受刑者176人が急遽アルカトラズ島に移された。

このころから島は本格的な刑務所へ転換することとなり、今までの歩兵に代わり軍看守が配置され、1907年には島は「アルカトラズ島・合衆国軍事刑務所太平洋支所」との指定を受けました。

砦は取り壊され、1912年に3階建ての大型監房棟が島中央にでき、合計600の監房、厨房、食堂、
病院、運動場、管理事務所などを備えた大刑務所となります。発電所も建設されて下ります。

1915年、島は「合衆国矯正兵舎太平洋支所」と改名され、教育と更生に力点が置かれるようになります。受刑者は、軍事訓練、矯正教育、職業補導などを受けた上、刑期満了後は、
多くは軍務に復帰しました。

処遇は開放的で、夜間は監房に収容されるが、昼間は各自の仕事、授業、レクリエーションで時間を過ごし、規律違反の場合は独房に収監されたり鎖につながれたりした様です。

しかし、立地上、島内への水と食糧の供給にコストがかかったため、1930年代初頭の大恐慌もあって、軍は1933年、アルカトラズ島の刑務所を閉鎖することとなってしまいます。
その後は、かの有名な連邦刑務所としての時代に突入していきます。
 
 
島は軍から連邦司法省刑務所局に移管され、刑務所局は1934年7月1日、
アルカトラズ連邦刑務所を開設しました。
大恐慌や禁酒法により1920年代末から1930年代にかけて組織犯罪が激化し、
治安当局は、犯罪に対する強い姿勢を打ち出す必要があり、アルカトラズ島はそのために
「社会の敵」である凶悪犯を収容する施設という役割を担って下りました。

1934年4月から、脱走対策を万全にするため、軍事刑務所の設備に手が加えられた格子は柔らかい素材から、道具を使っても破壊できないものに取り替えられ、受刑者が逃げ隠れできる可能性のあるトンネル等はすべてセメントで埋められた。監房を取り巻くように、看守が武器を持って監視できるガン・ギャラリーが、受刑者の手が届かないよう高いところに設けられます。
ガン・ギャラリーは鉄柵で保護され、すべての鍵はその中で管理されていた。
 
食堂の天井には催涙ガスの噴射装置が取り付けられ、ガン・ギャラリー又は外部の監視場所から
の遠隔操作で噴射できるようになっていたいきます。全部で600近くの監房があったが、
どの監房も建物の外壁とは接しないようになっていたいるのが最大の特徴ですね。
 
 
この刑務所に収容されていた人員は、常時およそ260人から275人であり、連邦刑務所全体の収容人員から見れば1%にも満たなかったみたいです。受刑者にとっては、
必ず1人につき一つの監房が与えられることなど、ここの収容環境は他の連邦刑務所と比べて悪くなかったため、信じられない話ですが、
アルカトラズ刑務所への移送を希望する受刑者が多数いました。

アルカトラズ島に服役した受刑者の中には、有名な者も多いですね。
ロバート・フランクリン・ストラウドは、殺人罪でカンザス州レブンワースの刑務所に服役中に看守を殺して死刑判決を受けた後、嘆願により1920年終身刑に減刑され、1942年アルカトラズ連邦刑務所に移送され、1959年他所へ移送されるまでの17年間をここで過ごしました。

レブンワース刑務所でカナリアを飼ってその病気について研究し、本も書いていたことから「バードマン」(鳥人間)というあだ名で知られたが、同刑務所で、研究の名目で手に入れた道具を酒の密造に使おうとしていたことが発覚するなどしてカナリアの飼育が禁止され、アルカトラズ時代には鳥を飼ってはいなかったらしいです。

著名なギャングの大ボス、アル・カポネやジョージ・“マシンガン”・ケリーなどもここに収容されてい下りましたのは有名な事実ですよね。そのほか、他の刑務所で規則を遵守しない者、
暴力的行為を行った者、
脱走の危険があると考えられた者などがここに送られた来たのも有名な話ですね。

刑務所の中では、食糧、衣服、居住、医療の四つは権利として与えられていたが、
それ以外のもの仕事、面会、図書室の利用、レクリエーションなどはすべて「特典」であって、
努力によって獲得するものとされて下りました。本当に厳しい環境の刑務所ですね。

その過酷な環境に耐え切れず、信じられないような事件が幾度もおきます。
連邦刑務所時代には、14回の脱獄事件が起き、それに関与した受刑者は36人である(うち2人は2回脱走を試みた者)。このうち23人は身柄を確保され、6人は射殺され、2人は溺死した。
 
5人は行方不明であるが、溺死したものと推測されている。1946年3月に起きた脱獄事件は「アルカトラズの戦闘」として知られる。6人の受刑者が看守を襲って武器と監房の鍵を手に入れたが、運動場への鍵を見付けることができず脱出に失敗し、当局との銃撃戦の末、2日後に制圧された。
 
6人のうち3人は死体で発見され、残り3人は裁判にかけられてうち2人はガス室に送られた。
 
この事件で看守も2人が死亡し、約18人が負傷した。1962年6月11日、フランク・モリスとアングリン兄弟が監房から消えるという有名な脱獄事件が発生した。手製のドリルで通気孔が広げられており、夜の見回り時に気付かれないよう、ベッドには作り物の人間の頭が置かれていた。壁の後ろのパイプなどを伝って建物から脱出し、島の北東部から泳ぎ出したと見られているが、
現在も島外にたどり着いたかは不明であります。

1963年3月21日、財政的理由により連邦刑務所は閉鎖されてしまいます。
修繕・維持費用だけで300万ドルから500万ドルかかったとされ、それに加え日々の運営費用も他の連邦刑務所と比べ可なりの高額であった(1959年当時、1人当たりのコストはアトランタ刑務所で3.00ドルであったのに対しアルカトラズでは10.10ドルに上った)。これは、食糧や水の輸送供給に費用がかかったためであると言われて下りますが、真実はわかりません。
 

絶対に脱獄不可能と思われていた、アルカトラズ刑務所からの脱獄に成功した、
囚人の行方は未だ謎です。

憶測では、冷たい海の温度と速い流れに耐え切れず、溺れ死んだと言われて下りますが、死体を未確認ですので、本当の事は現在でも闇の中です。タイプ少し違うのですが、
この刑務所をモデルケースに全米各地で、厳しく過酷な状況にさらされる、
刑務所が多数誕生したのですが、アルカトラズ刑務所を超える刑務所は無いとおもいます。

IQ200のアル・カポネ(アルフォンス・ガブリエル・カポネ)すら脱獄を諦めて刑期を努めたと聞いたことが、あります。まさに、地獄の連邦刑務所がアルカトラズ刑務所だったんですね。
 
 

2014年4月19日土曜日

Henry Lee Lucas

Serial Killer 連続殺人犯の紹介のコーナーです。第5回目の今回ですが、
ご紹介するSerial Killerも大変、興味深い奴ですよ。Henry Lee Lucasの登場です!!

全米17州で300人以上を殺害していると言われる。
著名なシリアルキラーの1人であり、
トマス・ハリスの作品に登場する連続殺人者、
ハンニバル・レクター(羊たちの沈黙)のモデルの1人です。


ヘンリー・リー・ルーカスは1936年8月23日、アメリカバージニア州ブラックスバーグに生まれた。
母親のヴィオラはアイルランド系インディアンの女で、売春婦をしていた。

父親のアンダーソンは、酒に酔って列車に轢かれ、両足を失った貧弱な元鉄道員であった。
ヘンリーは11番目の子供であり、ヴィオラは女児が生まれてくることを期待していた(娘が生まれれば、母娘で売春が出来ると考えていたため)。

だがヘンリーが男児であったことに失望する。
ヴィオラは息子を「ヘンリエッタ」と名付けて女装をさせたり、意味も無く殴りつけたり、
自身の客を家に呼んでヘンリーの前で性交し、それを見るように強要するなど、
執拗に虐待を繰り返していた。

ヴィオラはしばしば「お前は死ぬまで私の奴隷」「あんたは悪魔から生まれた生き物なのだから、
当然あんたは悪魔なのだ。腐ったろくでなしとして生きてもらう」
「あんたはこの世に地獄をもたらすために生まれてきた」と、ヘンリーを罵倒した。

ヴィオラ以外の人物にヘンリーが優しく接せられると、ヴィオラは激しく怒り、
ヘンリーに優しくした本人を口汚く罵った。小学校の高学年になったとき、
ヘンリーはラバを飼いたがってた。

ヴィオラが珍しくラバの子供を買ってきてヘンリーに与えたことがあった。
ヘンリーは喜び、寝食も共にするほど気に入り、ラバもヘンリーに懐いた。

ヴィオラがヘンリーに、ラバが気に入ったかどうかを尋ね、ヘンリーが気に入った旨を告げると、
そのラバを射殺した。おふくろは、俺が何かを愛するという感情を抱くことに我慢ならなかった,
「おふくろは完全な狂人だった」と告白しており、
ヴィオラが人格的に異常であったことは明らかであった。

ヘンリーは10歳で酒の味を覚えたが、それは父親の影響であった。
父親もまたヴィオラから罵倒されたり虐待されていた。そればかりか、
アンダーソンは彼女から虐待されるのが好きであった。

ヘンリーは後に、「本当の親父だったかどうかも分からない」「汚らわしいマゾだった」などと語っている。14歳ではじめての殺人(17歳の少女をレイプして絞殺)を犯した。

最初の殺人は、ヘンリーにとって最悪のものであった。
母による激しい虐待と、女性に対する彼の意識が彼を大きく歪ませ、
女性とセックスに対して激しい憎悪を抱くようになった。

23歳まで出所と服役を繰り返すが、同年に義姉の元で恋に落ちた。
ヘンリーは彼女と生きていくことを決め、まともに働こうとした。

だが、母親がヘンリーの元に現れ、口汚く罵ったことで恋人は彼の元を立ち去り、
ヘンリーは再び独りになった。


ヴィオラの悪罵に耐えかねた彼は、母の喉を自らナイフで切り裂いて殺害した。
彼は逮捕され、第二級謀殺罪により40年の刑を宣告された。

しかし、彼自身は「おふくろが本当に死んだ」とは思ってはいなかった。
長年ヴィオラに虐待されたことで、ヘンリーの精神は骨の髄まで母の支配下にあった。

刑務所の中でも、ヴィオラの声が何度となく響き、ヘンリーに自殺を強要してくる幻聴に苛まれた。これによりヘンリーは乖離症状を繰り返し、精神分裂病と診断された。

ヘンリーは自身を診察した医師に対して、「セックスの際に相手を殺さなければ絶頂に達することができない」という証言をしている。

ヘンリーは仮釈放を望まなかった。
だが、囚人一人に掛かる年間の費用が多額であったことと、当時のベトナム戦争が泥沼化していたことで、国の財政が逼迫していたことから、司法当局は「更生の見込みのある犯罪者には、
可能な限り社会復帰のチャンスを与える」という名目で、早期釈放を推進していた。

収監されてから10年後、ヘンリーは仮釈放されることになった。
獄中で電気技師の資格を取得したことや、大学レベルの教育プログラムを無事修了したことなどが評価されたためであった。

仮釈放委員会で「釈放されたら、自分は必ず人を殺す」と明言していたにもかかわらず、
彼は釈放された。仮釈放審査の面談で委員のひとりから、「君は釈放されたら本当に人を殺しますか?」と尋ねられたヘンリーは、「はい。私は釈放されたら間違いなく人を殺します」と言ったが、
委員たちはこれをジョークと受け取った。

そしてヘンリーは、自らの予言通りに、
刑務所を出て数ブロックのところで女性を絞殺し、金品を強奪した。

釈放後の1979年、ヘンリーはオーティス・トゥールという男と出会う。
オーティスは下品で野蛮な男であったが、彼と出会ってから紹介されたベッキーという少女に、
ヘンリーは強く惹かれていった。ヘンリーと行動を共にし、無条件でヘンリーを受け入れるベッキーの髪の毛をといたりするなどして、ヘンリーは彼女を愛し始めた。

彼女に対してセックスは求めず、性的衝動が高まると、別の女性を襲って殺害してからベッキーの元へ戻ってきた。だが、後にベッキーがキリスト教に目覚めたことがきっかけで2人の間に溝が生まれる。後にヘンリーはベッキーを殺害したが、そのことをひどく後悔した。

ベッキー殺害後のヘンリーは、犯行後に証拠を残すようになった。
1983年の逮捕後、ヘンリーは約3000件の殺害を自供しているが、
一般的に実際に殺害したのは360人程度と考察されている。

ただし、ヘンリーには虚言癖があったとされるためにこの数字にも根拠は無い。
ヘンリーは後にモンタギュー郡拘置所の独房の中でキリスト教に目覚め、
テキサス州ウィリアムソン郡ジョージタウン刑務所にて、それまでの罪を進んで自白するようになった。それは、彼が犯した殺人のために冤罪で逮捕される人を救うためであるというが真実は定かでない。殺人罪が確定しているのは9件で、物的証拠があるのは2件のみである。

彼の死刑は1998年に執行されるはずだったが、当時のテキサス州知事だったジョージ・W・ブッシュが、証拠不十分を理由に死刑執行を延期した。

当時ブッシュの手元には153人分の署名できる死刑執行書があったが、
ブッシュは任期中に152人の死刑を執行した死刑執行推進派であり、
まさに異例中の異例であった。



毒殺以外のありとあらゆる殺しを行ったと彼は語っている。
「ヘンリー・ルーカス連続殺人事件特別捜査班」の正式メンバーとして、
鉄格子の中から助言を行っていたが、2001年、テキサス州ウィリアムソン郡ジョージタウン刑務所内にて心臓発作で死亡。64歳没。遺体を引き取りに来た身内はいなかった。

最後にこの凶悪的精神疾患連続殺人鬼のHenry Lee Lucasが
吐き捨てた名言集です。

女は存在する必要がない。だから見つければ全て殺す。

要するに俺はいいことをしたって訳さ。殺人は息をするのと同じだった。


俺にとってセックスは最悪のものだった。俺を自然のままに受け入れてくれる奴などいなかった。


セックスしたけりゃ力ずくだ。殺すしかない。人間?それは俺にとってなんでもなかった、ただの白紙だった。


2014年4月3日木曜日

R.L. (from Next) / Important (2007 Advance CD)

今回は、NextのR.L.のソロ2nd 残念ながらお蔵入りしました。
Importantに付いてご紹介します。

Nextは3人組R&Bグループです。Butta Love、Too Close等の大ヒットを放った下ります。
そのNextでリードを取っていたのが、R.L.です。

2002年にアルバムRL:Ementsでグループからでソロ・デビューし、
2007年ごろにMusic World/Universalから本作をリリースする予定でしたが…
いまだ発売されて下りません完全にお蔵入り状態です。
全10曲収録で、MidTempo、Slow Jamが大半を占めて下ります。

Someone To LoveはNe-Yo"So Sickの様な切ないメロが印象的な仕上がりで最高です。
Bucked NakedはThe Cornaboyzがプロデュースしたノスタルジックな雰囲気です。

Used To Beは本当にしっとり美しいミッド・ナンバーに仕上がって下ります。
ShareはR&Bの世界では定番の水滴の効果音がアクセントになった下ります。
Missin' Uは少し変わったバックトラックですが、綺麗なSlow Jamです。

Girl Come Onはムージー・ダンサー系の夜のドライブのおともに最適なミッドナンバーですね。
NothingはNextの曲と錯覚する程の極上ですね。

So SorryはTim & Bobが最も得意とするような遊牧民系トラックが極上です。
Stormは最後を締めくくる雷鳴轟く究極のSlow Jamです。

全10曲と曲数は少ないですが、それを補う極上ナンバー揃いですので、
興味がある方は、是非、探して購入を薦めます。
間違いない内容です。お蔵入りが本当に残念な1枚ですね。
 
1. Someone To Love
2. Bucked Naked
3. Used To Be
4. Share
5. Missin' U
6. Girl, Come On
7. Nothing
8. Sex As Good As Mine
9. So Sorry
10. Storm (Forecass)