2013年9月5日木曜日

Theodore Robert "Ted" Bundy

Serial Killer 連続殺人犯の紹介のコーナーです。
第4回目、今回は、Serial Killerの言葉を作ったTheodore Robert Bundyを紹介します。

Ted Bundyは、1974年から1978年にかけて、全米でおびただしい数の若い女性を殺害した。被害者の正確な総数はわかっていないが、彼は10年間にわたる否認を続けた後、30人を超える殺人を犯したと自白している。彼は原型的なアメリカのシリアルキラーとして考察される。

実際、(serial killer、serial=連続の、順列の)という表現は彼を表すために考え出された言葉です。
Ted Bundyの主な殺害方法は撲殺や絞殺であった。少女や若い女性を言葉巧みに誘い、
無防備状態にさせてから相手を殴りつけて意識を失わせ、それから性行為を行う。

アナルセックスがお気に入りであったとされる。その後に殺害し、死体を遠くまで運んで切り刻み、
切断し、淫らな行為をしたうえに屍姦を行い、数日後に死体の場所に戻ってから、
切り取った女性の頭部の口の中に射精したという。

元FBI捜査官ロバート・K・レスラーをして「けだもの」と言わしめた。
Ted Bundyは、女性を乱暴して殺害することをなんとも思わない、
残忍で加虐的な性格の持ち主であった。

Ted Bundyは反社会性パーソナリティ障害であったと考えられている。
残忍な殺人犯という一般的な評価に反し、しばしば知的でハンサムで愛嬌がある青年であったとも評される。

1946年11月24日、バーモント州バーリントンに私生児として生まれる。
出生時の名前はセオドア・ロバート・カウエル(Theodore Robert Cowell)。

彼の母親はデパートの店員、血縁上の父親は不明である。ロバートと母親は、
ロバートが9歳になるまで祖父と共にフィラデルフィアで暮らしている。
私生児という不名誉を隠すため、ロバートは祖父母の養子、
つまり母親の弟として周囲に触れ込まれていたようである。

彼の叔母は、ロバートが幼少期の頃、彼女のベッドの横に立ち、笑みを浮かべながらナイフで彼女を威嚇したと主張している。

ロバートと母親はワシントン州タコマ(彼女の叔父がこの地にある大学で音楽の教鞭を取っていた)に引っ越した。それからしばらく後、母親は教会の会合で出会った病院のコックをしていた男性と結婚。バンディ姓となる。複数の情報によれば、幼年期青年期に亘りバンディは実の母親を姉と考えていたかも知れないとのことである。

ウィルソン高校での高校時代、ロバートは華々しいとまでは云えないまでも、
メソジスト教会とボーイスカウトの活動に熱心な優れた学生であった。

伝記『The Only Living Witness』の著者であるスティーブン・ミショーとヒュー・エインスウォースによれば、彼には他者と迎合する生まれつきの感覚が欠如していたという。

事実、ロバートは著者に対し、「人が他人とコミュニケーションをとろうとすることの理由が分からなかった」という内容のことを語っている。ロバートは、高校の大半と大学時代の早期を通じて、
内気で内向的なままであった。高校を卒業する前から、万引きや窃盗などの犯罪活動は始まった。また思春期の若者として覗きなどの倒錯的な性行為に耽っていたと公言している。

また自分自身の一部は、幼年期より性や暴力のイメージに魅了されていたことを「実体」と表し、またそれをよく隠していた、とバンディは自身のことを語っている(しかし、この「他の自分自身」をバンディが語っている時は、自身の死刑判決を上告しようとしていた時期であったということに、留意しなければならない)。また、彼は残虐な性描写を特徴とするスナッフフィルムのファンであると語っている。高校卒業後、ピュージェットサウンド大学へ入学したバンディは、心理学を専攻する傍ら自己変革に取り組み、「ハンサムで頭脳明晰な青年」へと周囲の評価は変わる。

バンディはワシントン州の共和党員としてワシントン州知事選の選挙活動に参加し、州政府犯罪対策委員会やシアトル自殺救済電話相談室(Seattle suicide crisis center)でカウンセリングなどのボランティア活動をしている。この時期、水難事故で溺れた子供を救助し、地元警察より表彰されている。共にボランティア活動をしていた駆け出しの犯罪記者アン・ルールは、皮肉なことに彼女の友人であるバンディの犯罪と知らずに、彼の犯した犯罪記事を書いている。

数年後、彼女はバンディの伝記『テッド・バンディ―「アメリカの模範青年」の血塗られた闇(原題:The Stranger Beside Me)』を書くこととなる。バンディは、大学の一年生のとある女性と交際を始める。しかし、彼女がバンディの未熟な面、覇気の無さに嫌気が差した結果、交際は破綻する。

交際破綻より2年間を経て、再び彼女とバンディは交際を始め、彼らは婚約を果たす。だが婚約より2週間後、バンディは彼女からの電話に出ることがなくなり、あっさりと彼女を捨てる(尚バンディはこの時期、違う女性とも交際中)。この交際の破綻後、
バンディは3年間にわたる殺人凶行を始めた。

バンディの殺人対象者に見られる共通点、「髪を真ん中で分けた黒髪の若い白人女性」という原型はこの女性から形成されていると、ルールは考察している。


それでは、Serial Killer Ted Bundyの連続婦女暴行殺人事件を紐解いていきましょう。
彼は力に飢えていた。力を持つことが、すなわち私生児としての出生のハンデを埋めるものだと堅く信じていた。そして、この飢えを充たすためにテッドは、自らこうありたいと願う虚構の自画像を思い描いた。裕福なテッド。上品なテッド。賢いテッド。人気者のテッド…。

この虚構の実現にとって最大の妨げとなったのは、出生を巡る現実であった。
出生のハンデを埋めるために作り上げた虚構が出生のために実現されないというパラドックス。

テッド少年は苦悩し、より一層の力を欲する。そして、この悪循環の末、遂に自らの欲望にのみ従い行動する人間になり果てたのである。凶悪な殺人者としてのテッド・バンディは、図らずしも1人の女性により完成される。弟のグレンは語る。「兄をおかしくしたのはスティファニー・ブルックスだ。

あの女にさえ会わなければ、兄は殺人鬼にはならなかったかもしれない」
1965年、奨学金を得てワシントン大学に進学したバンディは、やがて背が高く、長い黒髪の美人、スティファニー・ブルックスと恋に落ちる。サンフランシスコの裕福な家庭に育った彼女は、
その容姿といい、家柄といい、学歴といい、まさにバンディの理想とする女性であった。

バンディは彼女に夢中になった。そして、早々に婚約を交わした。
しかし、彼女と釣り合いがとれたのは、あくまでバンディの虚構の自画像とであった。
現実のバンディは、貧しく、粗野で、我が儘な私生児だった。

「彼女と私はまるで高級ブティックのソックスと安売り店のローバックのようなものだった。
まるで釣り合わなかったんだ」
バンディの子供っぽさに嫌気がさした彼女は、夏の終りに婚約を破棄した。

キャンパスに戻ったバンディは、失意あまり学業も手につかず、遂には退学を余儀なくされる。
この時、バンディに克服されるべき明確な目標が誕生する。

「いつかあの女を跪かせてやる」そして、その後のバンディの行動はすべて、
この「髪の長い女」へのコンプレクスに支配されることとなる。
バンディは彼女を跪かせるために、例の虚構の自画像を、とにかく外見だけでも一つ一つ積み上
げていった。マナーを磨き、服装に注意を払い、社交的となった。そして、政治の道に進んだ。

ワシントン州の共和党員となったのだ。つまらない仕事だったが、極めて勤勉に働いた。
上院議員の中にもバンディの知性や行動力に感銘を受けた者は少なくない。
「彼ならきっと知事にまで登りつめるだろう」人々は口々にこう噂した。

多くの恋愛を経験して実践を積んだバンディは、いよいよ問題の「髪の長い女」、スティファニー・ブルックスと再会する。彼女はバンディの変わりように驚き、熱い関係は再燃する。ほどなく2人は婚約を交す。ところが、バンディは燃え上がるだけ燃え上がらせた炎をそのままにして、
プイと別れを告げてしまう。

彼女が電話で釈明を求めても、彼はニベもなく受話器を置くだけだった。
「自分があの女と釣り合いが取れることを証明して見せたかっただけなんだ」
テッド・バンディは完成した。



事件はバンディがスティファニー・ブルックスを跪かせた1974年1月、ワシントン州シアトルから始まった。

1974年1月31日 リンダ・アン・ヒーリー(21)失踪
3月12日 ドナ・ゲイル・マンソン(19)失踪
4月17日 スーザン・ランコート(18)失踪
5月 6日 ロバータ・パークス(22)失踪
6月 1日 ブレンダ・ボール(22)失踪
6月11日 ジョージアン・ホーキンス(18)失踪

彼女たちはみな、髪が長かった。
7月14日、22歳のドリス・グレイリングは、ワシントン州サマミッシュ湖畔で夫と待ち合わせていた。そこに腕にギブスをして包帯で吊った二枚目が近づいてきた。

車にボートを積むのを手伝って欲しいというのだ。彼女は駐車場までついて行った。
そこにはフォルクスワーゲンが停めてあったが、ボートは家に置いてあるから一緒に来て欲しいという。待ち合わせの時間が迫っていた彼女は丁寧に断わった。男も感じよく微笑んで礼を云った。

数分後、彼女は先ほどの二枚目がブロンドの女の子を伴って歩いているのを目撃した。
ジャニス・オット(23)である。男は「テッド」と名乗り、ボートをどうとか云っている。
ははあん、これがあの男の手口か。うまくやるじゃない。

翌日の新聞を見た彼女は震え出さずにはおれなかった。ジャニス・オットは再び生きて姿を現わすことはなかった。ジャニスが消えた数時間後、デニーズ・ナスランド(19)もまた同じ湖畔で消えていた。
私もいろいろな殺人者を知っているが、一日のうちに、しかもほんの数時間のうちに2人の女性を犯して殺した元気な男をバンディをおいて他には知らない。
その意味で彼の犯行は前代未聞であった。

この時期のバンディはシアトルの法律事務所に勤めていた。
事件当時、同僚のキャロル・ブーンはバンディの顔が「テッド」のモンタージュ写真にそっくりだと云ってからかった。これをバンディは愛想よく受け流していた。
これを冗談で済ませなかった者もいた。

当時バンディと同棲していたメグ・アンダースは、バンディこそが「テッド」ではないかと疑い始めていた。彼の机の引き出しを探すと、中からギブスと包帯が発見された。彼女は通報したが、
警察の相手にもされなかった。

彼女の恋人は、通報を受けた何千人の1人に過ぎなかったからである。
9月に入って狩猟解禁になると「テッド」の埋蔵物が山奥で続々と発見された。

例のサマミッシュ湖畔で消えた2人は、シアトル連続失踪事件の被害者たちと一緒に埋葬されていた。このことから一連の失踪事件はすべて「テッド」の犯行であることが判明した。

その時には舞台は既にユタ州ソルトレイクに移っていた。バンディがワシントン州知事の推薦状を得て、ユタ大学の法科に入学したのである。

1974年10月 2日 ナンシー・ウィルコックス(16)失踪
10月18日 メリッサ・スミス(17)失踪
10月31日 ローラ・エイミー(17)失踪
彼女たちはまたしてもみな、髪が長かった。

11月8日、キャロル・ダロンシュはショッピング・センターで二枚目に声をかけられた。
私服警官だという彼は、職業的な口ぶりで彼女の車が盗難未遂にあった旨を告げた。
彼女は何故にその車の持ち主が自分であると判ったのか不思議に思ったが、確認のために彼に従った。車には鍵がかかっていた。盗難にあった形跡はなかった。彼は容疑者の首実検のため、署まで来て欲しいという。見たこともない男の首実検など無意味だとも思ったが、
彼女は素直に彼の車に乗り込んだ。

ところが、車は署とは反対の方向に向かっている。彼女は初めて恐怖心を抱き、私服警官を名乗る男の顔を見た。二枚目は悪魔の形相に変貌していた。アイスピックで脅すと手錠をかけた。しかし、幸いなことに、彼女は既に車のドアを開けていた。そこに偶然、車が通りかかった。
彼女はこれに飛び乗り、難を逃れた。同じ日の夕方、27km離れたビューモント高校で、
教師のジーン・グレアム(24)が二枚目にドライブを誘われた。
彼女は取りあわなかったが、学生のデビー・ケント(17)は誘いに乗ってしまったようだ。
デビー捜索の過程で警察は、手錠の鍵を校庭で発見した。

スキーのシーズンともなると、バンディはコロラド州にも出張した。

1975年 1月11日 カリン・キャンベル(23)失踪
3月15日 ジェリー・カニンガム(26)失踪
4月 6日 デニーズ・オリヴァーソン(25)失踪
4月15日 メラニー・クーリー(18)失踪
7月 1日 シェリー・ロバートソン(24)失踪

その間、本拠地ソルトレイクでも髪の長い女が続々と消えていた。
そし1975年8月16日早朝、バンディはソルトレイクで遂に逮捕された。

それはまったくの偶然によるものだった。交通違反をしたバンディの車を調べた警官が、
アイスピックにスキーマスク、数本のロープに手錠一組というキャロル・ダロンシュの事件に符号する物件を発見したのである。バンディはその日のうちにも保釈金を払って釈放されたが、
ジェリー・トンプソン刑事はバンディこそがダロンシュ事件の犯人と確信していた。
トンプソンはシアトルで起こった「テッド」の事件を思い出した。ひょっとしたらバンディが「テッド」なのかも知れない。調べてみればなるほど、彼がソルトレイクに移り住んでからは「テッド」はシアトルに現われていない。

これは予想以上の大捕り物になりそうだぞ。トンプソンは早速、バンディの身辺調査を開始した。
トンプソンは初めての大物を相手に、慎重に捜査を進めた。これに対してバンディは、
自分に容疑がかけられていることを承知の上で、警察との知恵くらべを楽しんでいるようだった。
尾行者をからかう余裕さえ見せ、家宅捜査も平然と許した。
トンプソンはこの家宅捜索で、コロラド州の地図を押収した。

そういえば、コロラドでも類似の連続殺人事件が起きている
トンプソンは地道に証拠を固めていった。キャロル・ダロンシュとジーン・グレアムにも協力を願って首実検を行った。結果、2人ともバンディを選び出した。これを受けてトンプソンは、バンディをキャロル・ダロンシュの誘拐及び殺人未遂の罪で告発した。バンディはたちまち有名人となった。彼の経歴と風貌は犯罪者に相応しくなかったからだ。多くの人々が冤罪ではないかと訝しく思った。調子に乗ったバンディは警察を罵り、自分を犯罪者扱いしたマスコミを非難した。アレクサンドル・ソルジェニーツィンの『収容所群島』を携えて入廷し、
自らの境遇をこの弾圧を受けたソビエトの作家に準えたりもした。
陪審員は有罪を評決し、1年から15年の禁固刑が宣告された。

警察がバンディをこれだけで許す筈はなかった。一連の連続殺人事件で告発する準備を進めていた。一方、バンディは自ら弁護の指揮をとると主張し 国選弁護人に対しては慇懃な態度で接した。もっとも、バンディの弁護士気どりは、必ずしもハッタリだけが目的ではなかった。

アメリカでは自分で自分の弁護を務める被告人には通例、一定の行動の自由が認められている。例えば、図書室での判例集の閲覧などが許される。バンディはこうした自由を利用して、脱走を企てたのである。1977年6月7日、バンディは予審のためにコロラド州ピトキン郡裁判所に護送された。彼はいつものように図書室に入って行った。手錠と足かせは外されていた。

彼は図書室の窓を開けて9メートル下の地面に飛び降りた。
テッド・バンディ逃走のニュースは全米を駆け抜けた。付近の住民は野放しになった狂犬に怯え、
お調子者たちはバンディの快挙にエールを送った。バンディTシャツが飛ぶように売れ、
バンディ・バーガーなるものも売り出された。ヒッチハイカーは冗談で「私はバンディに非ず」の看板を掲げた。全米が現代のビリー・ザ・キッドに熱狂した。バンディの逃走劇は、決してビリー・ザ・キッドのようなカッコいいものではなかった。街を抜けた彼はアスペン山中へと向かい、2日に渡って道に迷った挙句、ゴルフ場でキャデラックを盗み、シアトルに向かう途中で地元の保安官に呼び止められた。バンディは厳重な護衛付きで拘置所に帰還した。

彼が監房から出るときは必ず足かせがはめられるようになった。
やがてバンディのコロラド州での裁判は、その係属がアスペンからスプリングスへと移されることが決定した。これを知ったバンディは判事に向かって毒づいた。
「この私に死ねというのか!」
スプリングス裁判所は、死刑判決が下る確率が高いことで有名だったのである
1977年12月30日、上の決定を受けてバンディは再び脱走を企てる。
16kgも減量した彼は、独房の天井に弓鋸で開けた小穴から娑婆に抜け出したのだ。
シアトル一帯には非常線が張られた。問題のメグ・アンダースは警察に保護された。

肝心のバンディはというと、方向違いのフロリダに向かっていた。
バンディはこの時、もう殺人から足を洗おうと考えていた。
名前を変え、別の人間として人生を再スタートさせることを決意していた。
しかし、彼の内なる欲望が、彼に平凡な生活を許さなかった。
バンディは殺しの衝動をもはや制御できなくなっていた。

1978年1月15日午前3時、フロリダ州立大学の学生ニタ・ニアリーは恋人に別れを告げると、
裏口からこっそりとカイ・オメガ女子寮に帰宅した。ふと正面玄関から外を見ると、
そこには1人の男が棍棒を握りしめて佇んでいた。ただごとではない。通報しようと電話に急ぐと、
カレン・チャンドラーが血みどろでよろめき出た。頭を殴られている。
キャシー・クライナーもやられていた。

顎を砕かれている。マーガレット・ボーマンとリサ・レヴィーは血の海の中で倒れていた。
マーガレットは既に息絶え、リサも救急車の中で絶命した。
信じられないことだが、バンディの夜はまだ終っていない。

カイ・オメガの惨劇から1時間半後、数ブロック離れた別の女子寮に住むデビー・チカリッソは、
隣室からの激しい物音で目を覚ました。時計を見るとまだ5時前だ。
ルームメイトを起こして2人で聞き耳を立てると、何かを叩くような音に続いて、
慌ただしい足音が聞こえてきた。2人は意を決して隣室の扉を開けた。

そこにはシェリル・トーマスが頭を割られて 血みどろで倒れていた。
バンディは何故、こんな大それたことをやらかしたのだろうか? 派手な行動は自分の居場所を教えるようなものだ。長い拘束からの解放感が彼の理性を狂わせたのだろうか?
バンディはもう殺人をやめたかった。しかし、自分だけではやめることが出来なかった。
だから、誰かに止めてもらいたかった。
フロリダ州は死刑判決が下る可能性が最も高い土地である。

それを知ってバンディは、この地を選んで凶行に及んだ。
つまり、彼は死刑になりたかったのである。私はこの解釈は真実に近いと考えている。
それは意識的なものではなかったかも知れない。
無意識に自己破壊願望が働いた蓋然性はかなり高い。

何故なら、バンディは今回初めて物証を残したからである。
これがバンディの致命傷となった。その物証とは、リサ・レヴィーの臀部に残された歯形だった
女子寮での惨劇を繰り広げたバンディは、しばらくは偽名でその地に潜伏していたが、
誰も自分がバンディと気づかないことに業を煮やしたのか、車を盗むとシアトル方面へと向かった。

そして、最後の犠牲者たるキンバリー・リーチ(12)を手にかけた直後に逮捕された。
1979年7月23日バンディは死刑を宣告された。


判決に際してのカワート判事の発言が有名である。
「からだには気をつけなさい。このような人間性の浪費を見たのはこの法廷にとっても悲劇でした。
君は頭のいい青年です。立派な法律家になったかも知れない。

君がこの法廷に弁護士として立っていればどんなによかったかと思う。
私は君に敵意はまったく持っていない。これは信じて欲しい。しかし、君は道を間違えた。
からだには気をつけなさい」バンディはこれをどんな気持ちで聞いていたのだろうか。

いずれにしてもバンディは、監獄でもいろいろと暗躍した末に(未解決連続殺人事件の捜査協力を申し出て、少しでも生き長らえようとした)、1989年1月24日、電気椅子により処刑された。42歳だった。

その処刑を伝える新聞の見出しには「殺人鬼は笑みを浮かべて死んだ」いかにも彼らしい死にざまですよね。

FBI捜査官 ロバート・K・レスラーは、フロリダの刑務所にいたバンディに会いに行き、彼と面談を行ったことがある。バンディが有罪となり、上訴請求が棄却されてから、FBIの調査プロジェクトのために、レスラーはバンディとの面談を望んでいたが、あるとき、バンディがレスラーに手紙を出し、面談が実現した。バンディが手紙を送ったのは、FBIの調査資料を入手して自分に課された死刑宣告を覆すためであった。しかし、レスラーは資料の受け渡しを拒否し、バンディが犯した犯罪にしか興味が無いと告げた。するとバンディは、「自分は上訴に勝つ。

死刑にはならない」と豪語したという。レスラーの質問をのらりくらりとかわしたり、
自分の犯した殺人については3人称を使って話し、「自分がそうした」と、はっきりとは認めなかった。レスラーは、バンディが真実を語ることは決して無いと考えたという。

それまで冤罪、無罪を訴えて久しかったが、死刑執行の3~4日前になって、バンディは全てを話すと言い出した。全国から警察官が集まり、バンディの話を聞くことになった。

バンディは初めての殺人について曖昧に話し続け、時間がかかりそうなので死刑を延期するよう請願をしてくれれば全部話せると言ったが、受け入れることはなかった。

最終的には自分の罪を認め、その上で「私は暴力の中毒だった」と語り、
寂寥感にあふれた顔を見せた様です。




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