2013年5月10日金曜日

公民権運動 (American Civil Rights Movement)

2013年のGWは朝からヒストリーチャンネルで特集放送してい。
6時間の公民権運動の番組を観ました。

本当に、悲惨な映像と説明で正直言って気持ちが落ち込む内容でしたね。
当時のアメリカの人種差別の背景には悲惨で屈辱的な黒人社会の現実が映し出されていました。

先ず、公民権運動(American Civil Rights Movement)とは、1950年代から1960年代にかけてアメリカの黒人(アフリカ系アメリカ人)が、公民権の適用と人種差別の解消を求めて行った大衆運動であります。

1776年にイギリス本国から独立したアメリカ合衆国では、かつての宗主国であるイギリスや、
アイルランド、ドイツなどのヨーロッパ諸国から移民として渡って来た白人が住民の多数を占め、
彼らに奉仕する奴隷としてアフリカ大陸などから強制的に連れてこられていた黒人をはじめとした有色人種への差別が合法とされてた。

北アメリカにおける奴隷制度の導入は、1607年にイギリス人がバージニア植民地に初めて入植した直後に始められ、1776年に独立した後もそのまま続いた。

奴隷制度のもと、17世紀から19世紀にかけて、およそ1,200万人のアフリカ人がアメリカ大陸に強制的に連れて行かれ,このうち、645,000人が現在のアメリカ合衆国に連れて行かれた。1860年のアメリカ合衆国の国勢調査では、奴隷人口は400万人に達していた。

このように、多くの黒人奴隷がイギリスやフランスなどにより北アメリカへ強制的に連れて行かれた上に、独立後も奴隷制度のもと、黒人をはじめとする有色人種への差別的待遇が、
白人により合法的に行われていた。その後1865年に終結した南北戦争以降に、
連邦議会が奴隷制度廃止や公民権の付与、黒人男性への参政権の付与を中心とした3つの憲法修正条項(アメリカ合衆国憲法修正第13条・14条・15条)を追加したことで、黒人奴隷の解放が表向きは実現したことになっていた。

しかし、1883年の公民権裁判での最高裁の判断は、アメリカ合衆国で生まれた(または帰化した)すべての者に公民権を与えるとした修正第14条は私人による差別には当てはまらないとし、
個人や民間企業によって公民権を脅かされた人々を保護しなかった。
この判決は、1875年に制定され、公共施設での黒人への人種差別を禁止した公民権法のほとんどを、実質的に無効化した。さらに1890年にルイジアナ州は、黒人と白人で鉄道車両を分離する人種差別法案を可決した。これに対してルイジアナ州ニューオーリンズの反人種差別団体がプレッシー対ファーガソン裁判と呼ばれることになる裁判を起こしたものの、1896年5月18日に合衆国最高裁判所は、分離すれど平等の主義のもと、公共施設での黒人分離は人種差別に当たらないとする、事実上人種差別を容認する判決を下した。


このプレッシー対ファーガソン裁判の判決を元に、20世紀初頭には、南北戦争にやぶれるまで奴隷制度を合法としていた、ジョージア州やアラバマ州、ミシシッピ州などの南部諸州で、
白人による黒人の人種分離が合法的に進められた。さらにこの判決を受けて、
南部諸州のみならず国内の全州で、有色人種に対する差別が、
1964年の公民権法制定までのあいだ、大手をふってまかり通ることとなった。

これらの人種分離法は一般にジム・クロウ法と呼ばれ、アパルトヘイト政策下の南アフリカにおけるのと同様、交通機関や水飲み場、トイレ、学校や図書館などの公共機関、
さらにホテルやレストラン、バーやスケート場などにおいても、白人が有色人種すべてを分離することを合法とするものだった。

さらに「ジム・クロウ法」の下では、黒人と白人の結婚を事実上違法とする州法の存在が認められたほか、教育の機会が与えられなかったことから識字率の低い黒人の投票権を事実上制限したり、住宅を制限することも合法とされてきた。
これらの州においては、クー・クラックス・クラン(KKK)などの白人至上主義団体による黒人に対するリンチや、黒人の営む商店や店舗、住居への放火、
さらにこれらの白人至上主義団体と同じような志向を持つ警察による不当逮捕や裁判所などによる冤罪判決などが多発した。




1909年2月12日に、社会学者のW・E・B・デュボイスとアイダ・B・ウェルズらの黒人と白人有志によって設立されたアフリカ系アメリカ人委員会を前身とし、1910年5月にモアフィールド・ストーリを会長に発足した全米黒人地位向上協会(NAACP)は、設立以降これらの深刻な人種差別に立ち向かった。

黒人のみならず白人の活動家もメンバーに迎えたNAACPによる活動は、次第にアメリカ全土にその裾野を広げて行ったものの、短期間のうちには人種差別法を掲げていた南部諸州のみならず、アメリカ国民の多数を占めていた白人の間に深く根付いた黒人やインディアン民族、
アジア系などの有色人種に対する人種差別意識、そして人種差別法を改めることはできなかった。しかしNAACPは、その後も地道かつ堅実な運動を通じて、
アメリカにおける人種差別解消に対する戦いを続けて行くこととなる。



1917年よりアメリカも参戦した第一次世界大戦では、陸軍では黒人のみで編成された黒人部隊が編成れ、海軍でも多くの黒人兵士が軍隊内の差別の中で下級兵士として参戦し、
アメリカとその同盟国の勝利に大きく貢献した。
その一方で、1930年8月にトーマス・シップとエイブラム・スミスのリンチ殺人事件が新聞報道されたことをきっかけに、ユダヤ人教師エイベル・ミーアポル(ペンネームのルイス・アレン名義で有名)は事件をモチーフに奇妙な果実を作詞作曲し、ビリー・ホリデイの代表的なレパートリーとしてリンチ殺人事件が世に知られることになった。

その後アメリカが自由で平等な民主主義の橋頭保を自称して1941年12月より参戦した第二次世界大戦においても、黒人兵士が戦線で戦う場合は黒人部隊としての参戦しかできなかった上に、海軍航空隊および海兵隊航空隊から黒人は排除されていた。さらに黒人が佐官以上の階級に任命されることは殆どなかった。ある陸軍の将官が黒んぼを通常の軍務に就かせたとたんに、
全体のレベルが大幅に低下すると公言したように、アメリカ軍内には制度的差別だけでなく、
根拠のない差別的感情も蔓延してた。

その上に、第二次世界大戦におけるアメリカの同盟国で、連合国の1国であったものの、白豪主義と呼ばれるように伝統的に白人至上主義傾向が根強いオーストラリアは、当初アメリカ軍の黒人兵の自国への上陸を拒否するなど、黒人兵はアメリカ軍内のみならず一部の人種差別的な同盟国からも差別的な待遇を受けることとなった。この様な状況下にあったものの、第二次世界大戦にアメリカが参戦する直前の1941年8月は、アフリカ系アメリカ人最初の将官として、
ベンジャミン・デービス・シニア陸軍准将が任命されたほか、
多数の黒人兵が第二次世界大戦に参戦し、ヨーロッパ戦線を中心にドイツやイタリアなどの枢軸国軍との戦闘で多数の犠牲を出し、連合国軍の勝利に大きな貢献をした。

大戦後期には、陸軍航空隊で黒人の戦闘機パイロットを中心とした332部隊が登場し、ドイツ空軍との戦いの中でウェンデル・O・プリューイット大尉やロスコー・C・ブラウン大尉、
チャールズ・マクギー大尉やリー・アチャー中尉など、複数のエース・パイロットを生むなど大活躍した。さらに第二次世界大戦終結後には、
日本やドイツ、イタリアなどの占領任務にも多くの黒人兵士が参加した。



1948年7月28日には、ハリー・トルーマン大統領によってようやく軍隊内での人種隔離を禁止するよう命ぜられたものの、その後の1950年に勃発した朝鮮戦争においても、黒人士官や黒人と白人の混合部隊の実現はなかった。この様に多くの黒人の将兵が、
アメリカが参戦した戦争で大きな働きを行い、自国の勝利に貢献したにもかかわらず、
アメリカ国内における深刻な人種差別や南部諸州における黒人差別を目的とした人種差別法は、
1950年代になっても全く改められる気配はなかった。

この様な状況下で、1955年12月1日にアラバマ州モンゴメリーで、黒人女性のローザ・パークスが公営バスの白人専用及び優先座席に座ったことに対して、白人の運転手のジェイムズ・ブレイクが白人客に席を譲るよう命じたが、パークスがこれを拒否したため、
人種分離法違反で警察官に逮捕され投獄、
後にモンゴメリー市役所内の州簡易裁判所で罰金刑を宣告される事件が起きた。

この事件に抗議して、マーティン・ルーサー・キング牧師らがモンゴメリー市民に対して、1年にわたるバス・ボイコットを呼びかける運動を展開した。この呼びかけに対して、
黒人のみならず運動の意義に共感する他の有色人種、さらには白人までもがボイコットに参加し、後にこの運動はモンゴメリー・バス・ボイコットと呼ばれることとなる。

この運動は全米に大きな反響を呼び、1956年には、合衆国最高裁判所がバス車内における人種分離(白人専用及び優先座席)を違憲とする判決を出すと、アラバマ州をはじめとする南部諸州各地で黒人の反人種差別運動が盛り上がりを見せた。これらの反人種差別運動は、
アメリカにおいてこれまで人種分離法の下で人種分離、および人種差別を受け続けていた黒人をはじめとする有色人種が、アメリカ合衆国市民(公民)として法律上平等な地位を獲得することを目的としていたので、公民権運動と呼ばれるようになったのです。

ここまででも、かなり、悲惨で惨めで屈辱的な扱いをされていた黒人社会がわかりますよね。
このあとも、まだまだ差別は繰り返しされていきます。次の章では黒人社会に光と希望を与えた指導者達に焦点を絞って進めていきます。


運動においてはキング牧師らを中心とした黒人の聖職者が著名な指導者となったが、
数多くの組織やアメリカインディアンや日系アメリカ人などの他の有色人種や白人を含む個人が参加して行われたもので、運動の形態も、訴訟や街頭でのデモから、
人種別の席などを設けている施設に対するボイコット、さらに「シット・イン」と呼ばれた、
レストランの白人専用席での座り込みに至るまで多岐に渡った。

1960年に始まった「シット・イン」は、その後15都市で5万人が参加する大規模なものとなり、その後、このような非暴力的手段による抗議活動に賛同した一般市民による、
有色人種の入場を拒否していたり、人種別の出入り口や人種別の席などを設けている図書館やスケート場、プールや海水浴場など対する同様の座り込みやボイコットが広く行われるようになった。

「シット・イン」をはじめとする、人種差別とそれを正当化する人種分離法への抗議活動の多くは、上記のように非暴力的な手段を用いて行われたものの、これに対して多くの州における警察当局は治安維持を理由にデモ隊を過酷に弾圧するなどしたため、
これに反発した黒人らによる大規模な暴動に発展することもしばしばであった。

しかし、これらの非暴力的な運動に対する弾圧や暴動は内外のマスコミで大きく報じられ、アメリカにおける人種差別の酷さと、それに非暴力的手段を用いることで抵抗の意思を示し、事態を改善しようとする黒人たちの姿を浮かび上がらせた。

ローザ・パークス逮捕事件とモンゴメリー・バス・ボイコットに先立つ1954年には、
公立学校における人種隔離を違憲としたブラウン対教育委員会裁判判決が最高裁において下され、これ以降、全米の学校において長年行われていた人種隔離が廃止されていくこととなった。

しかし、人種差別的な風潮が色濃く残る南部や中西部の各州においては、州政府により人種隔離への対応はまちまちであった。

1957年には、ブラウン対教育委員会裁判判決以降も白人しか入学させていなかった、アーカンソー州立リトルロック・セントラル高校への9人の黒人学生の入学を、再選のための白人票稼ぎを目論んだ白人至上主義者のオーヴァル・フォーバス州知事が拒否し、白人過激派による襲撃事件が起きるという情報があるので学校を閉鎖するという理由をつけて州兵を召集し学校を閉鎖し、黒人学生の入学を妨害するという事件が起きたリトルロック高校事件である。



公民権運動が全米規模で盛り上がりを見せる中に発生したこの事件に対して、反人種差別運動家だけでなく、白人が多くを占めるアメリカ国内の世論、そして連邦政府も反発を見せた。

ドワイト・D・アイゼンハワー大統領はフォーバス州知事に事態の収拾を図るよう命令したが、
この命令が無視されたため、急遽アイゼンハワー大統領はアメリカ陸軍の第101空挺師団を派遣し、入学する黒人学生を護衛させた。その後9人の黒人学生は無事に入学したが、
白人学生からの執拗ないじめに遭うことになった。しかし8人の学生が卒業を果たした。

これらの1950年代から1960年代にかけて起こった人種差別を元にした事件と、それに対する世論の反発は公民権運動家を力づけ、公民権運動はキング牧師らの呼びかけに応じて、人種差別や人種隔離の撤廃を求める20万人以上の参加者を集めた1963年のワシントンD.C.におけるワシントン大行進で最高潮に達た。

このワシントン大行進には、キング牧師やその理念に賛同するアメリカ国内の各団体のみならず、
シドニー・ポワチエやマーロン・ブランド、ハリー・ベラフォンテやチャールトン・ヘストン、ジョセフィン・ベーカーやボブ・ディランなどの世界的スターも数多く参加するなど、アメリカ国内のみならず世界各国からの注目を浴た。この時、キング牧師がワシントン記念塔広場で行った「I Have a Dream」の演説は、アメリカの歴史に残るものとして有名であるだけでなく、世界各国における人種差別解消運動に大きな影響を与えた。



1960年に発足したジョン・F・ケネディ政権は公民権運動には比較的リベラルな対応を見せ、南部諸州の人種隔離法(一般にジム・クロウ法と総称される)を禁止する法案を次々に成立させた。しかしケネディ大統領は1963年11月にダラスで凶弾に倒れてしまい、リンドン・ジョンソン副大統領がその後を継ぐこととなった。

ジョンソン大統領は南部のテキサス州を地盤に持つ保守派として知られたものの、大統領就任以前から人種差別に対して否定的であり、公民権運動に強い理解を示し公民権法の制定に積極的であった。実際にジョンソンは1963年11月に大統領に就任すると、議会への影響力を最大限に働かせ、公民権法の成立に向けてキング牧師などの公民権運動の指導者らと協議を重ねる傍ら、保守(人種差別主義という意味での)議員の反対に対して粘り強く議会懐柔策を進めたていたんですね。この様な普通の白人も沢山いたのが現実です。

その結果、世論の高まりもあり議会も全面的に公民権法の制定に向け動き、1964年7月2日に公民権法(Civil Rights Act)が制定され、ここに長年アメリカで続いてきた法の上での人種差別は終わりを告げることになったのは完全に表向きな話であります。まだ、悲惨な状況は繰り返しあります。
後半は表向きや法律的には廃止になった黒人の奴隷制度や人種差別の裏の状況と繰り返しされている。差別に立ち向かった黒人社会に焦点を当てて進めていきたいと思います。



公民権運動に対する多大な貢献が評価され、アメリカ合衆国における人種偏見を終わらせるための非暴力抵抗運動を理由に、キング牧師に対し1964年度のノーベル平和賞が授与されることになった(受賞は12月10日)。これは史上最年少の受賞であり、黒人としては3人目の受賞である。
キング牧師は受賞は全てのアフリカ系アメリカ人のものだとコメントした。

その後ジョンソン政権下では積極的に政府が後押しすることで黒人の社会的、経済的地位を向上させるために、役所や企業、大学に黒人を優先的に(もしくは白人と同数)採用することを義務付けるアファーマティブ・アクション政策が取られた。1965年からアメリカが本格参入したベトナム戦争では、アメリカの軍隊史上初めて黒人部隊が編成されず、黒人が士官として配属され、
白人の下級兵士に対して指揮を執ることとなった。

しかし、アメリカ国内における白人による有色人種への人種差別感情はその後も収まらず、公民権法制定後の1965年3月5日には、アラバマ州セルマで血の日曜日事件と呼ばれる白人警官による黒人を中心とした公民権運動家への流血事件が発生した上、人種差別感情が強い南部を中心に、クー・クラックス・クランなどの白人至上主義団体による黒人に対するリンチや暴行、黒人の営む商店や店舗、住居への放火なども継続的に起きていた。

一方、黒人による反人種差別運動の一部勢力は、公民権法制定以降もなくならない人種差別への悲観と、1968年4月4日のキング牧師の暗殺による指導者の不在、そしてベトナム戦争下で混乱する国内情勢の影響を受けて、非暴力主義を貫いたキング牧師が代表する平和的・合法的な反差別運動から、暴力などの非合法的な手段を用いることを否定しない過激な運動は、1965年に暗殺されたマルコムXの影響が強いとされ変化していく。

キング牧師の暗殺直後には、全米125の都市でいっせいに暴動が発生した。
そのような状況下で、トリニダード・トバゴ生まれのストークリー・カーマイケル率いる急進派の学生非暴力調整委員会(SNCC)や、冷戦下においてアメリカと思想的に敵対していた共産主義の影響を受け、都市部のゲットーにおける自衛闘争の開始を主張したブラックパンサー党、黒人による独立国の樹立を目指した新アフリカ共和国(Republic of New Africa)といった過激派の政党が現れ闘争を継続したが、このような過激な手法、主張が継続的な支持を受けることはなく、1970年代中頃になって運動は沈静化した。


ここまでが、公民権運動 (American Civil Rights Movement)の実態と性質です。
このあとも、まだ、根深く繰り返す人種的な差別問題はあります。

最後は、現在までの差別問題に視点を向けて進めていきましょう。

公民権法の制定から45年以上が経ち、アファーマティブ・アクション政策の導入によって、有色人種に対する社会進出の阻害が是正され、経済界や法曹界のリーダー的存在につくアフリカ系アメリカ人をはじめとする有色人種が増加したほか、ポリティカル・コレクトネスの浸透による反人種差別の啓蒙が進んだ。

さらに1984年アメリカ合衆国大統領選挙と1988年アメリカ合衆国大統領選挙では、ジェシー・ジャクソンが民主党の大統領候補の指名を得るための予備選挙に立候補し、1984年の選挙時にはウォルター・モンデールとゲーリー・ハートに次ぐ3位の得票数を得た他、1989年にはアフリカ系アメリカ人(ジャマイカからの移民の子孫)のコリン・パウエルがジョージ・H・W・ブッシュ政権下でアメリカ軍のトップである統合参謀本部議長に就任し、その後2001年にジョージ・ウォーカー・ブッシュ政権下で国務長官に就任した。さらに同じくアフリカ系の血を引いた(父親がケニア人)バラク・オバマが白人の対立候補に大きな差をつけて2009年1月に大統領に就任するなど、公民権法施行以前に比べて表面的な状況の改善は大きいとされていますが、現在でも、
全米各地で人種差別感情を元にした、白人による黒人をはじめとする有色人種に対する暴力事件や冤罪事件、人種差別的な扱いは数多く起こっており、1990年代に至ってもロドニー・キング事件のようなヘイトクライム事件が起きている他、クー・クラックス・クランなどの白人至上主義団体が南部を中心に各地で活動を続けている。

また、2008年に行われた大統領選挙においては、アフリカ系の血を引いたオバマに対して人種差別的発言を行う白人政治家やマスコミ関係者が相次いだほか、それ以外の場でも白人政治家や宗教家、文化人などによる有色人種への人種差別発言が後を絶たないなど、いまだにアメリカ国内において、アフリカ系アメリカ人をはじめとする有色人種に対する人種差別や人種差別的感情は根強く残っている。

この様な状況に対して、NAACPなどの反人種差別団体は人種差別の解消に向けて戦い続けることを余儀なくされているが、公民権法の施行により法的側面からの人種差別撤廃を前進させた事は、アメリカにおける人種差別撤廃において大きな進歩をもたらしたと国内外から高い評価を受けています。

0 件のコメント:

コメントを投稿