2013年12月21日土曜日

アメリカ料理店 Outback Steakhouse

俺の大好きなアメリカン料理を提供する、レストラントOutback Steakhouse
アウトバック・ステーキハウスは、1988年2月アメリカ合衆国フロリダ州タンパにて創業、
OSIレストランパートナーズによって、現在23か国に900店舗を展開して下ります。
メニューは世界共通のオリジナルレシピで作り上げて提供している最高の店です。


ステーキのソース、サラダのドレッシングやクルトン、ベーコンビッツ、
デザートのチョコレートソースに至るまで、料理の味の決め手となるものは全て店内で手作りです。
1999年に日本法人のアウトバックステーキハウスジャパンおよび子会社のオーエスカントーを設立、2000年4月に南町田駅前のグランベリーモールに1号店を出店。
2012年12月現在両社合わせて10店舗あります。

店内もアメリカの雰囲気ですので、食事していても楽しい気分で楽しめますよ。
当然、メニューも豊富で、全て本場アメリカの味が味わえる料理を提供してくれていますね。


名物のブルーミン・オニオンです。
巨大玉ねぎを丸ごと1個揚げて下ります。
ヨーグルトとマヨネーズをブレンドしたソースが格別の美味さですよ。



リブアイ・ステーキです。
やわらかいお肉ですので、お子様も問題なく食べれる最高級ステーキです。


ベビーバック・リブです。
本場アメリカの南部のテイストたっぷりの骨付き豚肉の料理ですね。
甘いソースとマスタードの風味が絶妙ですよ。



チーズバーガーです。
100%ビーフの肉汁溢れるハンバーガーですね。
フレンチフライも付いているので、これと、ビールでも十分ですね。

最後にデザートですね。
チョコレートケーキですね。
ブラウニーを下に退き上にたっぷりのアイスクリームと生クリームをトッピングしています。
女性にも大人気の大人のケーキですね。
 



 
 

2013年12月13日金曜日

Joe Budden / No Love Lost (2013)

Joe Buddenの4年振りのNew Shit! Drop!!


Joe Buddenはニュージャージー州,ジャージー・シティ出身のラッパーです。
ジャージーシティを代表するトップアーティストに成長したJoe Budden。
 
2001年に自主制作したCDがきっかけで、DJ ClueやDJ Kay Slay、Green Lantern等のミックステープにフリースタイルが収録されるようになり、噂が噂を呼んでDef Jamとの契約を勝ち取る。
 
その直前にプレスした”Get Right Wit Me”が高評価を得ていたところに、Def Jamからの最初のリリース”Focus”がリリースされると、一気にブロウアップし、L.L. Cool Jをフィーチャーした同曲のRemixバージョンや”Drop Drop”がヒット。
 
さらには、今やNYで右に出る者のいない最高のプロデューサー、Just Blazeプロデュースによるシングルで、ヒップホップクラシック”Scenario Remix”と同じKool & the Gangの”Soul Viberation”使いの”Pump It Up”が大ヒット。続く”Fire”もJust Blazeプロデュースのアッパーチューンで、ゲストにBusta Rhymesを迎えこちらもクラブ・ラジオで大ヒット。
 
アルバムのセールス的には50 Centに及ばなかったものの、確実にシーンの中堅以上の評価を得た。2003年にリリースされた”Joe Budden”に続く2ndアルバムからのシングルカット”Body Hot”と”Pop Off”(Just Blazeのプロデュース)も大ヒット。”Big Beat”を使った”Wait a Minute”や現代的なアーバンブルースを感じる”Scared”等が続々と大ヒットしています。

俺の中では最も注目をして期待しているアーティストの1人ですね。
それで、いよいよ新作の期待が最大に膨れ上がった時にタイミング良くリリースされました。

4年ぶりのソロアルバムですが、客演の内容が非常に良く、
世間的にも注目されても良いのではと言ったアルバムに仕上がっていそうです。
ゲットした興奮冷めやらぬうちに聴いて行きたいと思います。


1.Our First Again (Intro)
イントロはピアノとヴォーカル、ギターにビーツ、最後に語りと本編を期待させる内容になってます。

2.Top Of The World Feat. Kirko Bangz
音色が意外にもDrakeの楽曲 彷彿とさせる曲です。冒頭はゴリゴリの楽曲でくるのかと思いきや、
スローな立ち上がりです。俺的に素晴らしいと思える楽曲ですね。

3.She Don't Put It Down Feat. Lil Wayne and Tank
やっぱりラップの切れ味が半端ないですね。鼻にかかった声も独特でへヴィーです。
Drakeが関わっている楽曲に良く携わっている、T-Minusがプロデュース。
あの独特なメロディーがループしてます。なんにせよ、Tankのフックと言うのがたまりませんよね。

4.NBA Feat. Wiz Khalifa and French Montana
こちらは、アルバムからの1stシングル、こちらはJoe Buddenにとっては意外な組み合わせかも
Wiz KhalifaとFrench Montanaが参加しています。
楽曲はお互いの個性を生かすようなコンシャスな楽曲ですね。
トラックは単調でHipHop的なトラック、ブレイクが効果的に使われているのが印象的ですね。

5.You and I Feat. Emanny
これは俺的にはかなりの名曲!!
ウワものやメロディーは非常に柔らかく、心に沁み込んでくる楽曲ですね。
Emannyがこれまた良い仕事してます。
Ne-Yoをもっと丸っこくしたような歌が癖になりますね。今後の期待の存在になりましたね。
普段HipHopを聴かない方にも聴いてほしい名曲ですね。
このような曲を聴けると思ってなかったのでメチャメチャ嬉しい誤算ですね。

6.Castles
これは、ピアノがメインの楽曲構成ですね。
ここまでのアルバムの流れも非常に良いですね。完璧に近いでしょうね。
緩やかで、柔らかい質感、どこか懐かしい景色を思い起こさせてくれるようなサウンドがきらりと光りますね。

7.All In My Head Feat. Royce Da 5'9 and Kobe
よりピアノのメロディーが生きた楽曲構成ですね。
このアルバムは、かなりこの手の曲が多いですね。
メロ好きな俺には、大歓迎なんですよね。
Usherっぽいヴォーカルのフックもメロウで最高ですね。
Royce Da 5'9の援護射撃もバッグンで良いですね。
それにしてもここまでメロディーに富んでいると、にんまりしてしまいますね。

8.Skeletons Feat. Joell Ortiz and Crooked I
今回のアルバムかなり曲と曲の繋ぎを意識してますね。
前の数曲もそうだったのですが、曲間が非常に詰まっていて違和感なく次の楽曲へ導いてくれます。もちろん17曲で結構限界まで楽曲が収録されているってこともあるかもしれませんね。
7曲目の終りから、いきなりフックで8曲目へ最高の流れですね。
こちらの楽曲もピアノのフレーズがリフレインしている楽曲。
しっとりとした楽曲がかなり続きますね。
メロディーは相変わらず非常に印象深いと言う意味でキャッチーですね。
これもまた、最高の曲ですね。

9.Ghetto Burbs Feat. Emanny
これは生演奏でのバンドなら絶対にカッコいいですね。Emannyのヴォーカルも最高にCoolですね。
楽曲を支えるバッキングギターがカッコいい!!
このアルバムの最大の盛り上がりと思わせてくれる楽曲ですね。
少しハードに攻めるJoe BuddenのRapも渋いですね。僕のお気に入りですね。

10.Last Day Feat. Juicy J and Lloyd Banks
クール系の音がサウスを想像させる楽曲ですね。
ごつごつした楽曲で特にJuicy Jの存在感をひしひしと感じる楽曲ですね。
アルバムの中でも一際身が引き締まる楽曲です。
Lloyd Banksのフローも最近では一番イカした感じで、これも凄く渋いですね。

11.Role Play (Interlude)
ここからは、後半に進んでいきます。この印象だとラストはさらにしっとりしそうですね。

12.Switch Positions Feat. Omarion
この楽曲は、ピアノのフレーズが最高!!
このイントロのピアノで一気に引き込まれました。ウワものはほぼピアノ、凄くしっとりした世界観ですね。Omarionのねっとりフックも最高。Joe Buddenの才能豊かな多彩なラップにも関心しますね。

13.Tell Him Somethin Feat.SLV
この楽曲は、約7分の大作品になっています。
曲だけ聴けば、完全R&Bアルバムですね。
素晴らしいクオリティーですね。
ねっとりとしながらもファルセットが艶やかなヴォーカルが最高の一言です。
セクシーなR&Bがお好きな大人な方にぜひ聴いてほしいですね。
最後はお決まりのごとくのギターが入ってきますので濡れ度合いはハンパなくですね。

14.Runaway
今回のアルバムの中には出てこなかったアコギが出てきます。
ストリート的な背景が思い浮かぶ楽曲ですね。。
骨太なラップが似合うトラックです。タメの効いた変則的なビーツも面白いですね。
フックもしっかりあって聴きごたえ十分です。
最後のギターソロに熱いモノを感じるのは俺だけですか?。

15.My Time
こちらもフックがあって歌モノとして楽しめる作品ですね。
裏でなってるギターの音が俺は大好きです。
タイトなビーツに乗っかるラップがカッコいいです。サウンド的にも色々な音があって豪華ですね。

16.No Love Lost (Outro)
この楽曲が最後ですね。エレキがメインの楽曲ですね。。
ずっと裏で鳴ってます。哀愁が詰まったタイトル曲で締めるのは最高ですね。

今回の新作は、かなり歌モノが占めているアルバムになってますね。
これはハード系のラップを期待してる人にとってはちょいとスカされた感が否めない感じですね。
普段からR&B、HipHopを聴く人であれば絶対に気に入ってくれるアルバムであること間違いなしですね。ごつごつした楽曲も殆どなく、
逆にHipHopをあまり聴いてない方にお勧め出来るアルバムですね
色々な感想はありますが、俺の中では間違いなしのアルバムでしたね。
今後は愛聴盤になるのも確実ですね。
 

2013年12月3日火曜日

Kiss / Monster (2012)

1974年のデビュー盤 KISSから数えて通算20枚目のオリジナルアルバム
Monster!!
前作2009年発売のSonic Boomでの70年代ROCK回帰した作品で往年のファンを大喜びさせてくれた、KISSの4人が今回も素晴らしいROCK'N'ROLL アルバムを届けてくれました。
期待していた、70's ROCKを現代に蘇らせた極上ROCK'N'ROLLを全12曲収録しています。


1. Hell Or Hallelujah
2. Wall Of Sound
3. Freak
4. Back To The Stone Age
5. Shout Mercy
6. Long Way Down
7. Eat Your Heart Out
8. The Devil Is Me
9. Outta This World
10. All For The Love Of Rock & Roll
11. Take Me Down Below
12. Last Chance 

2013年11月27日水曜日

The Black Angels - Indigo Meadow (2013)

テキサスはオースティン出身のサイケデリック・バンドのThe Black Angels 、
4枚目となる新作が遂に完成しました。結成当時よりギター/ベースを担当していたNATE RYANが脱退し、4人組の新編成となりましたね。2005年にEPでデビューを飾り継続的なライヴ・パフォーマンスでその注目度を上げてきた実力者達です。

今作もソングライターでヴォーカルのALEX MAASの渋みのあるハイ・トーン・ヴォイス、
RED CRYOLA「WAR SUCKS」ばりの重々しいファズの単音リフから、
MYSTIC SIVA、MUSIC EMPORIUM辺りを想起させる酩酊感溢れる、
ヴィンテージ・オルガンやドローン・マシーンを多用したそのサイケデリック・サウンドは、
若年層だけでなく往年のサイケ・ファンをも膝を打つ内容となっています。


The Black Angels は、SILVER APPLESやROKY ERICKSON、PETER DALTREY(KALEIDOSCOPE)なども出演する北米最大サイケ・フェス『AUSTIN PSYCH FEST』の主催や、前述のROKY ERICKSONのバック・バンドも務めたり、SPACEMEN 3やBRIAN JONESTOWN MASSACRE以降のネオ・サイケデリック・シーンの代表格としてシーンを牽引する存在にまでなったきています。現代のサイケ番長。前作『PHOSPHENE DREAM』(2011年作品)に引き続き、
MIKE VERNONが率いた伝説的レーベルBLUE HORIZONからのリリースとなります!

2013年11月11日月曜日

池田典代 / Dream in the street (1980)

池田典代 ドリーム・イン・ザ・ストリート
初CD復刻です。和物専門のDJには朗報でしょうね。

俺は和物は使わないですが、大好きです。
個人的に復刻を願っていたので、直ぐに購入してしまいましたね。

内容は文句無くお洒落で爽やかな彼女の声とサウンドに参りしたね。
俺の大好きな山下達郎関連の作品では最もレア度の高い作品です。

当然ですが、シティ・ポップ 和物グルービーの名盤です。



山下達郎による作曲編曲、そして達郎自身がコーラス、ギターで参加したタイトル曲Dream in the streetは達郎マニアからの認知度も高いシティ・ポップ作品の最高峰。

逆に世俗的に思いっきり振り切った歌謡ディスコ曲、恋のジャイロ等も収録した歴代の山下達郎ワークスの中でも屈指の稀少度を誇る池田典代のソロ・デビュー・アルバムが待望の初CD化。

曲ごとに入れ替わり立ち代り参加した豪華ミュージシャン達にも注目ですね。
当然、2012年最新デジタル・リマスター作品です。

限定復刻なので、お早めに購入を薦めます。
1980年の作品とは思えない仕上がりです。
文句無く最高の一言です。

収録曲はこの時代では当たり前の10曲ですが、全曲捨て曲なしです。

1. アディオス
2. Dream in the street
3. サマーオレンジの恋
4. 冷たい雨
5. Love is like a party
6. My prayer
7. 愛のかけら
8. 恋のジャイロ
9. Sunday morning
10. たたずんだ街角
 

2013年11月4日月曜日

Compton's Most Wanted

俺の大好きなGangStar Rap Group!!
Compton's Most Wanted


Compton's Most Wantedは、MC Eiht、Chill MC、DJ Slip、The Unknown DJ、
DJ Mike Tの5人組で、1990年にデビューアルバム「It's a Compton Thang」をリリース、
1993年の3rdアルバム「Music to Driveby」リリース後にMC Eihtがソロ活動をはじめ、
グループは活動停止状態になりましたが、2000年と2006年に再結成アルバムをリリースしています。

1stアルバムIt's a Compton(1990年発売) Thangでは、シングルカット曲
One Time Gaffled 'Em Up、I'm Wit Dat、
This Is Comptonなどを収録、DJ Slip、The Unknown DJがプロデュースしています。

2ndアルバムStraight Checkn 'Em(1991年発売)では、
シングルカット曲 Compton's Lynchin、Straight Checkn 'Em、
Growin' Up in the Hoodなどを収録、DJ Slip、The Unknown DJがプロデュースです。
本作から残念ですがChill MCが脱退してしまいました。

3rdアルバムMusic to Driveby(1992年発売) からは、シングルカット曲のHood Took Me Underや、
Scarface参加のN 2 Deepなどがヒットしています。
DJ Slip、The Unknown DJ、MC Eiht、Rick Rockがプロデュースを手掛けた名盤ですね。

4thアルバムRepresent(2000年発売) では。The Unknown DJを除く4人での再結成アルバムです。
5thアルバムMusic to Gang Bang(2006年発売)は、名門名高いチカーノラップレーベルThumpからのリリースです。Mr. Criminal、Fingazz等がプロデュースを手掛けています。

彼達の極上な曲を手軽に聴けるのがベスト盤です。
名作映画 Menace II Society収録の名曲 Streiht Up Menaceも収録しています。


Compton's Most Wanted Discography
1990: It's a Compton Thang
1991: Straight Checkn 'Em
1992: Music to Driveby
2000: Represent
2006: Music to Gang Bang

2013年10月28日月曜日

Ray Lewis

NFL 現役最高のミドルラインバッカー!!
ボルチモア・レイブンズ No. 52
その男の名は...レイ・ルイス。



1996年のドラフトで全体26番目に指名された、
彼は多くのスカウトからはNFLでプレーするラインバッカーとしてはサイズが小さすぎると見られていました。

しかし彼は1996年には110タックルをあげてUSAトゥデイの選ぶオールルーキーチームに選ばれた。この年彼があげたロスタックル15回はNFLトップの数字でしたね。
また2.5サック、6パスブロック、1インターセプトの数字を残して下ります。

1997年NFLトップの184タックル、4サック、1インターセプト、1ファンブルフォース、
1ファンブルリカバー、11パスブロックの成績をあげてプロボウルに初めて選ばれています。


1998年には3年連続チームトップとなる120タックル、3サック、2インターセプト、
1ファンブルフォース、7パスブロックの成績をあげて2度目のプロボウルに選ばれました。
彼はスポーティングニュースのオールプロにも選ばれ、
後に殿堂入りするバリー・サンダースの現役最後の試合でチームメートと共に、
サンダースをわずか41ヤードに抑え込みました。

1999年、NFLトップの168タックル、3.5サック、3インターセプト、8パスブロック、
1セイフティ、1ファンブルフォースの成績をあげて3年連続プロボウルに選ばれると共に初めてオールプロに選出されて下ります。

2000年、137タックルをあげて、NFL最優秀守備選手賞に輝く活躍を見せた彼に率いられた強力ディフェンスはNFL記録となる165失点、ラン喪失970ヤードしか相手に許さなかった。

ディフェンスの6つのカテゴリでNFLトップとなり、レギュラーシーズンで4回完封勝利をあげた。
チームは創設以来初のスーパーボウルに出場し優勝を果たし彼はMVPに選ばれています。

ポストシーズン4試合で彼は31タックル、2インターセプト、9パスブロック、
1ファンブルリカバー、1タッチダウンをあげたのです。


2001年、162タックルをあげてオールプロファーストチームに選ばれると共に5回目のプロボウル出場を決めた。そのプロボウルではタッチダウンをあげている。
プレーオフ2試合でも17タックル、3ファンブルフォース、1パスブロックの成績を残した。

2002年には肩の負傷により5試合の出場に終わったがチーム5位の58タックル、2インターセプト、2パスブロック、1ファンブルフォース、1ファンブルリカバーの成績をあげた。
第4週のデンバー・ブロンコスとのマンデーナイトフットボールでは18タックル(11ソロタックル)
2パスブロック、1インターセプトをあげたのですよ。

2003年には161タックル、1.5サック、6インターセプト、2ファンブルフォース、2ファンブルリカバー、14パスブロック、1タッチダウンの成績をあげた。11月の最優秀守備選手に選ばれ、
第17週のピッツバーグ・スティーラーズ戦では15タックル、1インターセプトをあげて週間MVPに選ばれている。プレーオフでは合計17タックルをあげた。
シーズン終了後、50票中43票を獲得し、2度目のNFL最優秀守備選手賞に選ばれた。

オールプロの投票では全選手中トップとなる50票中49票の1位票を獲得しファーストチームに選ばれて下ります。

2004年は、146タックル、1サック、2ファンブルリカバー、1ファンブルフォース、6パスブロックでオールプロファーストチームに選ばれて下ります。

2005年、第6週の怪我が原因でシーズン後半を棒に振った。第8週から故障者リスト入りした彼は6試合の出場で46タックル、1サック、1インターセプト、2パスブロック、1ファンブルリカバーの成績を残していますね。

2006年、彼の率いたレイブンズのディフェンスは総喪失ヤード数、失点、インターセプト数など主要カテゴリのうち14個でトップの成績を残した。
またサック数、テイクアウェイ、ラン喪失ヤード数で2位となった。彼は2試合に欠場したものの14試合で103タックル、自己最高の5サック、2インターセプト、8パスブロック、
1ファンブルフォース、1ファンブルリカバーの成績を残した。

彼が出場した試合のうち、相手のランに100ヤードを許した試合はわずか1試合であった。
開幕戦のタンパベイ・バッカニアーズ戦では7タックル、1サック、3パスブロックの成績をあげて週間MVPに選ばれた。プロボウルにも選ばれたが手の負傷を理由に出場を辞退し、彼の代わりにはチームメートのバート・スコットが選ばれた。

この年の最優秀守備選手賞の投票で彼は5位となった。プレーオフでは合計15タックル、1パスブロックの成績を残したのですね。


2007年、平凡な成績に終わったレイブンズの中で彼はチームトップの120タックル、2サック、2ファンブルフォース、1ファンブルリカバー、10パスブロック、2インターセプト、1タッチダウンの成績をあげて12年のキャリアで9回目となるプロボウルに選ばれた。

2008年、彼は117タックル、3.5サック、3インターセプト、2ファンブルフォース、2ファンブルリカバー、9パスブロックの成績をあげて10回目のプロボウル、6回目のオールプロファーストチームに選ばれた。第10週のヒューストン・テキサンズとの試合で彼は8タックル、2インターセプト、
2パスブロックをあげて週間MVPに選ばれた。

チームはAFCチャンピオンシップゲームに進出したがプレーオフ3試合で彼は29タックル、2ファンブルフォース、1パスブロックの成績をあげた。
シーズン終了後彼は無制限フリーエージェントとなったがチームとオプション2年間を含む2015年までの契約延長の合意。

2009年、第2週のサンディエゴ・チャージャーズ戦ではダレン・スプロールズへのタックルでチームに勝利をもたらした。試合後彼はこのタックルは自分のキャリアの中でも最も素晴らしいものだと語っている。最終的にAFCトップの134タックル、3サック、2ファンブルフォース、1ファンブルリカバー、7パスブロックをあげて、11回目のプロボウル、7回目のオールプロファーストチームに選ばれた。プレーオフ2試合でも21タックル、1サック、1パスブロックの成績をあげている。

2009年シーズン終了までに彼は194試合に出場して通算1,770タックル(1,349ソロタックル、94.5ロスタックル)、36.5サック、14ファンブルフォース、16ファンブルリカバー、28インターセプト、1セイフティ、2タッチダウン、105パスブロックの数字を残している。
また14シーズンのキャリアでプロボウルにはインサイドラインバッカー、ミドルラインバッカーとしては最多の11回出場している。シーズン最多タックルとなったのが1997年、1999年、2001年、
2003年、2004年の5回、2003年にはラインバッカーとしてのNFL記録となるシーズン6インターセプトを記録した。オールプロファーストチームに1999年、2000年、2001年、2003年、
2004年、2008年、2009年、セカンドチームに1997年、1998年と選ばれた。
プレーオフには13試合出場し130タックル(85ソロタックル)、1サック、5ファンブルフォース、
1ファンブルリカバー、2インターセプト、13パスブロック、1タッチダウンをあげている。


2010年11月21日のカロライナ・パンサーズ戦でNFLのラインバッカーとしては史上7人目となる30インターセプトを達成した。

2011年の第3週、セントルイス・ラムズ戦で10タックル、1サック、1ファンブルフォースをあげて通算8回目のAFC守備部門週間MVPに選ばれた。第11週のシンシナティ・ベンガルズ戦を欠場し、
連続試合出場が57試合で途切れた。

2012年、第6週の試合で上腕三頭筋を断裂した。
第17週にロースターに復帰、2013年1月2日、シーズン終了後引退することを表明しました。


通算成績 (2012年までの成績)
タックル 2,073回
サック 41.5回
インターセプト 31回
タッチダウン 3回
ファンブルフォース 17回

受賞歴・記録
プロボウル選出:12回 (1997年、1998年、1999年、2000年、2001年、2003年、2004年、2006年、2007年、2008年、2009年、2010年)
オールプロ選出:7回(1999年、2000年、2001年、2003年、2004年、2008年、2009年)
NFL最優秀守備選手賞:2回(2000年、2003年)
AFC最優秀守備選手賞:3回(2000年、2001年、2003年)
スーパーボウルMVP:1回(第35回)


今後、彼のような選手は二度と現れないと思います。
すごく、残念ですが、事実を受け止める一年になりそうですね。
来期は、彼の姿は観れません。それが、寂しいですね。

2013年10月16日水曜日

Four Roses Bourbon Whiskey

俺の中では世界No.1のお酒
Four Roses Bourbon Whiskey





1888年に創業したアメリカ合衆国産バーボンの銘柄です。
フォア・ローゼズ(Four Roses、四つの薔薇)の由来は、
創業者の Rufus Mathewson Rose と、その兄弟と、二人の息子の4名の Rose によると推測されています。他にも諸説があり、明らかでは御座いません。

ケンタッキー州のローレンスバーグ蒸溜所は1910年に設立されたミッション・リバイバル様式の建物で、アメリカ合衆国国家歴史登録財となって下ります。

今現在でも、ケンタッキー州のローレンスバーグで蒸留されており、
アメリカでは主としてケンタッキー州、海外ではアジアと欧州で販売展開されて下ります。

1888年から1943年のあいだは、フォア・ローゼズ・ウイスキーは、ポール・ジョーンズ・ジュニアーが設立した同名の蒸留製造所で製造されていた「ストレート・バーボン」の呼び名でありました。

この蒸留製造所は、1920年から1933年にわたるアメリカ合衆国での禁酒法時代の期間も、「薬用」バーボンの蒸留製造を目的として、当時、例外的に法に抵触しない蒸留製造の恩恵を得ていた稀な事業者の一つである、フランクフォート蒸留製造社を取得合併して、バーボンの製造を継続したそうです。

フォア・ローゼズは他のバーボンと同様に、主として、原料であるトウモロコシから、
洗練さが加わっていった様ですね。フォア・ローゼズは、オーク製の新しい樽のなかで、少なくとも五年間は熟成されて下ります。この過程によって、独特の風味とコクと色合い生まれる様ですね。

フォア・ローゼズ・バーボンは、その貯蔵の仕方で他のバーボンと区別される。
フォア・ローゼズの場合、他のケンタッキーの蒸留製造業者が各階のあいだの温度差を利用して、
ウイスキーを熟成させるため使う、時に八階建てにもなる建物の代わりに、
倉庫で貯蔵を行う場合があるらしいです。このこだわりが極上のバーボンを生むわけですね。

フォア・ローゼズを気軽に味わえるのが、今流行のハイボールですよね。
近年は、若者に人気の缶入りのハイボールですが、フォア・ローゼズも遂に販売開始しました。

キリンビール株式会社から発売の缶入りハイボール、
市場に向け、世界のメジャーブランドウイスキーを使用した本格的な商品として、
フォアローゼズ ハイボールを全国のコンビニエンスストア限定で発売しています。
発売品種手軽に飲みやすいサイズの350ml缶です。

現在でもアメリカのフォア・ローゼズの蒸留製造所は、数種類のバーボンを製造してい下ります。
日本でも入手可能な物も多数ありますので、ご参考にして頂ければ幸いで御座います。

フォア・ローゼズ  黄色ラベル、40度 :この銘柄での花形製品(ケンタッキー州、欧州及び日本)
フォア・ローゼズ  スモール・バッチ、45度 :(ケンタッキー州、欧州及び日本)
フォア・ローゼズ  シングル・バレル、50度 :(ケンタッキー州、欧州及び日本)
フォア・ローゼズ  シングル・バレル、43度 :(欧州のみ)
フォア・ローゼズ  スーパー・プレミアム、43度 :(日本のみ)
フォア・ローゼズ  黒ラベル、40度 :(日本のみ)

フォア・ローゼズのお勧めの飲み方です。
俺は一番好きな飲み方は、やっぱり、ストレートですね。

フォア・ローゼズの味わいを堪能するならやはりストレートというのが一般的です。
ストレートの良いところは、フォア・ローゼズが持つ細やかな味わいをそのまま堪能できるところ。

そしてゆっくり時間をかけて飲んでも味わいがそれほど変わらないことです(もっとも時間がたてば香りは飛びますし、逆に空気に馴染むことで微妙に味わいは変わります)

フォア・ローゼズのストレートというと、とてもキツいイメージがあるかもしれませんが
意外とストレートでも飲みやすいものもあります。

また、飲み方によってはそのキツさを抑えることも出来ます。
フォア・ローゼズ度数の高いお酒ですからワインや日本酒などのようにクイッと含むように飲んでしまうとやっぱり喉が焼かれます。

どちらかというと舌先を潤す程度に口にし、飲むというより口の隙間から入ってくるお酒を舐めるような感じで味わっていくと意外に飲めたりします(それでも充分味わいが楽しめます)

「こんな飲み方をしていたらたった1ショットで30分もかかっちゃうよ」と思われるかもしれませが、
それで良いのです。

ストレートはじっくりゆったり飲む感じ。
ただ、必ずしもフォア・ローゼズはストレートでないといけないというわけでもありません。
ものによっては多少加水したほうがまろやかになるものもあります。
飲みなれた人は最後までストレートで飲むのではなく、少しずつ加水していって楽しむのも良いですよね。

また加水することで驚くほど違った印象になるフォア・ローゼズもあります。

一度ストレートで味わってみて、その後はお好みの飲み方を考えていくのも楽しみの一つですね。
氷を1つグラスに入れて飲むロックも違うテイストで美味しいですよね。

時間がたつほどに氷が解けて味わいが変わっていくので
ロックはその変わっていく味わいを楽しむ飲み方とも言えますね。
一杯でとても色んな印象を味わえる贅沢な飲み方です。

逆に言えば時間とともにドンドンと味わいが変わっていってしまうので、
自分好みの飲み口の時間はわずかしかありません。
ですからその味わいのうちに飲もうとすると・・・一気にペースが上がりますよね。

俺はゆっくり飲めるストレートより、ロックの方が酔いが早かったりしますね。
ちなみに、ロックにするとやや香りが抑えられてしまいう感じがします。

特に飲み始めの頃は氷の冷たい冷気が鼻を刺激するので更にわかりづらいです。
ですから個人的にはロックは香りより味わいの方を楽しむ飲み方だと思っています。

最後にメチャクチャ美味しくて驚くのがフォア・ローゼズのカクテルです。
女性にもお勧めですし、美味しくて、おしゃれな感じがしますよね。

フォア・ローゼズとアップルジュース、クラブソーダー、
レモンジュース、シナモンパウダー少々を入れて作るカクテルです。
是非!!試して下さい、驚きの美味さですよ。

ビール、チューハイ、焼酎、日本酒、ワインも良いですが、
たまには、大人の深い味わいの、Four Roses Bourbon Whiskeyは如何でしょうか。

2013年10月3日木曜日

K-ci & Jojo / My Brother's Keeper (2013)

90年代に活躍したR&B Group Jodeciから派生した兄弟デュオK-ci & Jojoの実に11年ぶりとなる
ニューアルバムMy Brother's Keeperを紹介します。
今年6月に待望のニューシングル「Knock It Off」を発表し、今っぽさも取り入れながらも、
久々に往年のK-ci & Jojoの歌に魅了されたファンには、最高の復活作ですね。
2曲のInterludeを含む全12曲収録です。収録曲的にも大満足の理想的なアルバム構成ですね。
近年は、少し衰えが感じられていた彼達ですが、今回は彼達にしか歌えないソウルを聴かせてくれています。僕の中では今年のベスト10に確実に入る大傑作アルバムです。


01. Back Again (Interlude) (00:48) 02. Knock It Off (03:49)
03. Middle of the Night (03:18) 04. My Brothers Keeper (04:31)
05. Say Hello To Goodbye (03:38) 06. Somebody Please (03:42)
07. What Goes Around (03:39) 08. Show & Prove (03:56)
09. Don't Ask, Don't Tell (04:01) 10. Happily Ever After (03:44)
11. Lay You Down (05:13) 12. Now That It's Over (Interlude) (01:03)

2013年10月1日火曜日

間宮貴子 / LOVE TRIP (1982)

知られざるジャパニーズ・シティポップスの大名盤!!
間宮貴子 LOVE TRIP
1982年にリリースされた本作。

アルバム一枚を通して、珠玉のアーバン・メロウで占められた捨て曲無しの大名盤!!
当時は全く売れず、中古市場にも出回らない激レア盤として有名ですよね。


 
そのお宝盤が、今回、CD盤で復刻されました!!
これは、完全に想定外の嬉しい出来事ですね。
当然ですが、入手致しました。

都会のいい女」的イメージも膨らむ間宮貴子の奇跡のシティ・ポップス名盤
奇跡の名曲 LOVE TRIPをはじめ、WHAT A BROKEN HEART CAN DO、
真夜中のジョーク等、まさにハイ・レベルなグルーヴィーAORの連続攻撃に完全にKO!!

元山下達郎バンドの椎名和夫を中心として、難波弘之、鳴瀬喜博、井上鑑ら豪華ミュージシャンを参加起用しているので、おしゃれで都会的なサウンドですね。
当然ですが、CD盤での復刻なので全曲デジタルリマスター処理をされてる極上盤ですよ。

収録曲は下記の10曲です。

1. LOVE TRIP
2. チャイニーズ・レストラン
3. 真夜中のジョーク
4. 哀しみは夜の向こう
5. ALL OR NOTHING

6. 渚でダンス
7. ONE MORE NIGHT
8. モーニング・フライト
9. たそがれは銀箔の・・・
10.WHAT A BROKEN HEART CAN DO Gregg Oldron

2013年9月25日水曜日

Jack Wagner / All I Need (1984)

AORファンには隠れた名盤と名高い一枚です。
Glen BallardとClif MagnessのプロデュースによるJack Wagnerのデビューアルバム1984年の作品。

長らく廃盤で入手が難しいので高値で取引されていましたね。
やっと、Rhino傘下のFriday Musicからリ・イッシューされました。
AORファンには待ちに待ったCD化だと思いますね。

俺は、このアルバムが大切な一枚です。最初に自分のお金で購入したアルバムです。
中学二年生の時代に新聞配達のアルバイトをしていました。
当時は、当たり前の様にバイトをしていましたね。
ラジオを聴いている時にAll I Needが流れてきて、もの凄く綺麗な印象の曲と歌に驚きましたね。

DJが今週の全米No.1はJack WagnerのAll I Needですと、言っていました。
次の給料日に即、レコード店に探しに行きました。

場所は、大阪の難波に以前、あった南街劇場の地下のタワーレコードでしたね。
いまでも、ハッキリと憶えています。レコードは直ぐにありましたので、購入して自宅で直ぐに聴きましたね。それが、Jack Wagner / All I Need (1984)です。俺には名盤です。

 
 
数十年経過しているので、音楽の知識も豊富になっているので、
改めて聴き直すと色々とわかってきます。
発表された時期やプロデューサーを見ると音の方も何となく判るという感じですね。

1曲目の"Premonitionは完全にMichael Sembelloの"Maniac"に似たタイプのナンバーですね。
ダンスポップ系の少し雰囲気の異なったAORとでも言えば良いのでしょうかね。

それにしても、モロ、"Maniac"といった雰囲気ですよね。
2曲目の"What You Don't Know"はこの時代の特徴のひとつの産業ロックしたナンバーです。
MAXUSがやりそうなナンバーですね。メロディはまあまあですね。

3曲目の"Whenever Hearts Collide"はメロディアスなバラード・ナンバーです。
しっとりした感じのAORナンバーですね。ギターを効果的に効かせた、僕の大好きな曲です。

4曲目の"Fighting The Nights"はClif MagnessとGlen Ballardのペンによるナンバーで、
Planet 3にでも入っているようなロマンティック・ハードネス路線のナンバーです。
これもこの時代特有の産業ロック的なAORですね。

5曲目"All I Need"はClifとGlenさらにDavid Packの3人によるナンバーで、
これもメロディアスなバラード・ナンバーです。
このアルバムの一押しですね。"All I Need......"のサビのメロディは最高です。
Clif Magnessによるバックのギター・ソロもかなりいかしてます。
俺はこの曲を初めて聴いて直ぐにレコードを購入した想い出のナンバーですね。
シンセサイザーとギターの使い方が唸る程の上手さですね。

6曲目の"Make Me Believe It"も産業ロック風のナンバーです。
このナンバーもPlanet 3に入っていてもピッタリのナンバーです。
ポップで、でも、しっかりとロックのテイストを含んだ曲と歌詞が特徴ですね。

7曲目の"Sneak Attack"は、まあこんなもんかな?といったナンバーでしょうか
本当にポップロックですね。この時代の売れ筋の曲調と展開ですね。

8曲目の"After The Fact"は再びメロディアスなバラード・ナンバーで、かなりいかしてます。
曲の出来も良いですし、Jack Wagnerのヴォーカルも良いですね。
かなり質の高いナンバーだと思います。

9曲目の"Tell Him (That You Won't Go)"も1曲目に似たエレポップしたナンバーです。
これも流行のダンス要素を取り入れた曲と歌い回しが特徴の少し凝ったナンバーですね。

10曲目"Lady Of My Heart"はGlen Ballard、David FosterそれとJay Graydonの共作によるバラード・ナンバーです。最後を締めくくるのに相応しいナンバーですね。
美しい規律のメロで効果的に入るサックスが印象的な今聴いても最高のナンバーですね。

曲のバラツキはありますが、全体的に良い印象のアルバムですね。
AORファンも納得すると思いますし、普通のRockファンも十分に楽しめると思いますね。
どちらにしろ、俺には生涯で忘れられないレコードですね。

2013年9月18日水曜日

Musicman Stingray bass

俺の今年一番の期待度100% 新戦力!!
made in USA!の本物スティングレイ!!


MUSICMAN(ミュージックマン) / StingRayのココがマジ!凄い!!
ベーシストの憧れですね。"StingRay"豊富なカラーバリエで、
誕生当初のクラシック・ロゴ、ミュートパッド付きのブリッジ、2バンド・イコライザーなどの特徴を再現された、モデルですね。
ただ単純にノスタルジー的なモデルではなく、
スティングレイが進化の過程で体得してきた機能的な優位性を融合したモデルですよね。
一味違ったルックスも魅力的ですよね。

ヘッド・ストックにはクラッシック・ロゴを採用していて、ラッカー塗装されたネックは、
厳選したフレイム・メイプルを採用していますよ。

コントロールは、ヴォリュームとトレブル、ベースの2バンド・イコライザー仕様で、
バッテリー・ボックスは、金属プレートを採用したクラシック・タイプ仕様ですね。
ミュートパッド付きスルー・ボディ・ブリッジを採用して、
トラスロッド調整が楽に行えるネック・エンド部のアジャスト・ホイール。

ネックジョイントは、剛性に優れた6ボルト・ジョイントを採用している、超優れものですね。
ベタ誉めですが、それ以上の期待度です。

2013年9月6日金曜日

2013年NFL レギュラーシーズン開幕!!

待ちに待った、2013年のNFL レギュラーシーズンが本日開幕致しました。
2014年2月2日のSuper Bowl 出場に向けての5ヶ月に及ぶシーズンが始まりました。

そして、NFL2013シーズンの幕開けとなるオープニングゲームは現地9月5日、
前年度のスーパーボウル覇者のボルティモア・レイブンズが、敵地に乗り込み
デンバー・ブロンコスと対戦する事になりました。開幕戦からAFC屈指の強豪対決となります。
両チームは、記憶に新しいところでは、昨季ディビジョナル・プレイオフで対戦していますよね。

その試合は、レイブンズが第4Q終了間際にクォーターバック(QB)ジョー・フラッコから、
ワイドレシーバー(WR)ジャコビー・ジョーンズへの70ヤードTDパスから起死回生のビックプレイから同点に追いつき、延長オーバータイムへもつれ込み。
 
勢いに乗ったレイブンズが、最後は延長の末に38対35で熱戦を制する劇的な勝利となったのも記憶に新しいと思います。そのレイブンズの対戦相手が今季、
下馬評ではAFCチャンピオンの最右翼にも挙げられている、
デンバー・ブロンコスとしては、開幕でしっかり昨季の痛恨の敗戦の雪辱を果たし、
弾みをつけたい開幕戦。

レイブンズはオフに、チームリーダーで精神的支柱だったラインバッカー(LB)レイ・ルイスが引退。
さらにセイフティ(S)エド・リード、ワイドレシーバー(WR)アンクワン・ボールディンなど複数の主力がチームを去っており、大幅な戦力ダウンと見る声は少なくない。
 
この懐疑的な声を封じる最も効果的な手段は、
開幕戦でのブロンコス撃破が最大の勝利になると思います。

レイブンズは守備陣で主力の移籍による大きなメンバー入れ替えを行って下ります。
一方のブロンコスは、パスラッシュの要である守備の大黒柱のLBボン・ミラーが薬物規定違反で開幕から6試合の出場停止に加え、パスカバーの中心であるコーナーバック(CB)チャンプ・ベイリーもケガで開幕戦の出場は当日判断と、
両チームともディフェンスに不安要素を抱えているのも現実な話です。

レイブンズのフラッコ、ブロンコスのペイトン・マニングの両QBによるパスの投げ合いからハイスコアリングゲームになる可能性は十分あると思いますね。

特にブロンコスは、デマリウス・トーマス、エリク・デッカーとロングパスを得意とする両WRに加え、
ショートパスのターゲットでは超一流のウェス・ウェルカーを獲得して、リーグ最強のWRトリオを擁している。一方のレイブンズは、ボールディンの移籍に加え、
フラッコのホットターゲットだったタイトエンド(TE)デニス・ピッタが故障で長期離脱と、
レシーバーの駒不足を指摘されている。

エースWRトレイ・スミスに続く若手の台頭が待たれるのも本年度の期待と楽しみのひとつですね。
ブロンコスに昨季まで6シーズン在籍したパスラッシャーのLBエルビス・ドゥーマービルが電撃移籍しています。ドゥーマービルは、計63.5サックと活躍しているものの、
オフにチームの契約上の不手際から退団することになり、その後、レイブンズに加入しています。

新天地での初戦がいきなりの古巣デンバー・ブロンコスの地元ということにも注目したいですね。


前置きは、この辺にして、肝心の2013年NFL レギュラーシーズンの開幕試合の様子と結果です。

現地9月5日、NFLの今季開幕試合が行われました。
デンバー・ブロンコスが本拠地で、前年度Super Bowl 王者ボルティモア・レイブンズと対戦。

クォーターバック(QB)ペイトン・マニングがNFLタイ記録の1試合7TDパス(パス462ヤード、0INT)
と驚異的な活躍を披露し、49対27と前年王者を圧倒して、開幕戦を制しました。


デンバー・ブロンコスは第1Qに先制TDを許してしまう。第2Qにはマニングがタイトエンド(TE)ジュリアス・トーマスに24ヤード、23ヤードと2本のTDパスを通すが、レイブンズに1TD、
1FGを奪われ、14対17とリードされて試合を折り返します。


しかし第3Qに入るとブロンコスが攻守で大爆発を見せつけます。
後半最初のシリーズでワイドレシーバー(WR)アンドレ・コールドウェルが28ヤードTDレシーブを挙げて逆転すると、さらに続くシリーズでパントブロックに成功。

敵陣10ヤード地点から攻撃開始の好機を得ると、ここでWRウェス・ウェルカーが
5ヤードTDレシーブ。ウェルカーは残り6分37秒にも4ヤードTDをマークし、
ブロンコスが35対17と一気に突き放していきます。

第4Qに入ってもブロンコスの勢いは衰えず。
残り4分半にはマニングから(WR)デマリアス・トーマスへの78ヤードTDパスが決まり、
昨季のディビジョナル・プレイオフで敗れた雪辱を申し分のない形で果たしました。

ブロンコスは、(WR)トーマスがレシーブ5回161ヤードで2TD、(TE)トーマスがレシーブ5回110ヤードで2TD、新加入の(WR)ウェルカーがレシーブ9回67ヤードで2TDをマークしました。


レイブンズはQBジョー・フラッコがパス362ヤード、2TDも2INT。
RBレイ・ライスはレシーブ8回35ヤードを挙げたが、
一方でラン12回36ヤード、1TDに終わっており、
レイブンズとしてはライスのランで試合をコントロールする展開に持ち込めなかったのが痛かった。

オフにメンバーを大きく変えた注目の守備陣は、マニングの空中戦を全く止めることができずじまいだったのが、レイブンズが敗戦した要因だと考えられます。


でも、まだ、開幕戦ですので、今後のボルティモア・レイブンズの立て直しに期待しましょう。
本年度のボルティモア・レイブンズは、昨年度までの守備の硬いレイブンズの姿は期待できないと思います。攻撃的な新しいレイブンズの姿が見れると思います。
開幕試合は、レイ・ルイスの引退が確実に響いた印象ですね。





2013年9月5日木曜日

Theodore Robert "Ted" Bundy

Serial Killer 連続殺人犯の紹介のコーナーです。
第4回目、今回は、Serial Killerの言葉を作ったTheodore Robert Bundyを紹介します。

Ted Bundyは、1974年から1978年にかけて、全米でおびただしい数の若い女性を殺害した。被害者の正確な総数はわかっていないが、彼は10年間にわたる否認を続けた後、30人を超える殺人を犯したと自白している。彼は原型的なアメリカのシリアルキラーとして考察される。

実際、(serial killer、serial=連続の、順列の)という表現は彼を表すために考え出された言葉です。
Ted Bundyの主な殺害方法は撲殺や絞殺であった。少女や若い女性を言葉巧みに誘い、
無防備状態にさせてから相手を殴りつけて意識を失わせ、それから性行為を行う。

アナルセックスがお気に入りであったとされる。その後に殺害し、死体を遠くまで運んで切り刻み、
切断し、淫らな行為をしたうえに屍姦を行い、数日後に死体の場所に戻ってから、
切り取った女性の頭部の口の中に射精したという。

元FBI捜査官ロバート・K・レスラーをして「けだもの」と言わしめた。
Ted Bundyは、女性を乱暴して殺害することをなんとも思わない、
残忍で加虐的な性格の持ち主であった。

Ted Bundyは反社会性パーソナリティ障害であったと考えられている。
残忍な殺人犯という一般的な評価に反し、しばしば知的でハンサムで愛嬌がある青年であったとも評される。

1946年11月24日、バーモント州バーリントンに私生児として生まれる。
出生時の名前はセオドア・ロバート・カウエル(Theodore Robert Cowell)。

彼の母親はデパートの店員、血縁上の父親は不明である。ロバートと母親は、
ロバートが9歳になるまで祖父と共にフィラデルフィアで暮らしている。
私生児という不名誉を隠すため、ロバートは祖父母の養子、
つまり母親の弟として周囲に触れ込まれていたようである。

彼の叔母は、ロバートが幼少期の頃、彼女のベッドの横に立ち、笑みを浮かべながらナイフで彼女を威嚇したと主張している。

ロバートと母親はワシントン州タコマ(彼女の叔父がこの地にある大学で音楽の教鞭を取っていた)に引っ越した。それからしばらく後、母親は教会の会合で出会った病院のコックをしていた男性と結婚。バンディ姓となる。複数の情報によれば、幼年期青年期に亘りバンディは実の母親を姉と考えていたかも知れないとのことである。

ウィルソン高校での高校時代、ロバートは華々しいとまでは云えないまでも、
メソジスト教会とボーイスカウトの活動に熱心な優れた学生であった。

伝記『The Only Living Witness』の著者であるスティーブン・ミショーとヒュー・エインスウォースによれば、彼には他者と迎合する生まれつきの感覚が欠如していたという。

事実、ロバートは著者に対し、「人が他人とコミュニケーションをとろうとすることの理由が分からなかった」という内容のことを語っている。ロバートは、高校の大半と大学時代の早期を通じて、
内気で内向的なままであった。高校を卒業する前から、万引きや窃盗などの犯罪活動は始まった。また思春期の若者として覗きなどの倒錯的な性行為に耽っていたと公言している。

また自分自身の一部は、幼年期より性や暴力のイメージに魅了されていたことを「実体」と表し、またそれをよく隠していた、とバンディは自身のことを語っている(しかし、この「他の自分自身」をバンディが語っている時は、自身の死刑判決を上告しようとしていた時期であったということに、留意しなければならない)。また、彼は残虐な性描写を特徴とするスナッフフィルムのファンであると語っている。高校卒業後、ピュージェットサウンド大学へ入学したバンディは、心理学を専攻する傍ら自己変革に取り組み、「ハンサムで頭脳明晰な青年」へと周囲の評価は変わる。

バンディはワシントン州の共和党員としてワシントン州知事選の選挙活動に参加し、州政府犯罪対策委員会やシアトル自殺救済電話相談室(Seattle suicide crisis center)でカウンセリングなどのボランティア活動をしている。この時期、水難事故で溺れた子供を救助し、地元警察より表彰されている。共にボランティア活動をしていた駆け出しの犯罪記者アン・ルールは、皮肉なことに彼女の友人であるバンディの犯罪と知らずに、彼の犯した犯罪記事を書いている。

数年後、彼女はバンディの伝記『テッド・バンディ―「アメリカの模範青年」の血塗られた闇(原題:The Stranger Beside Me)』を書くこととなる。バンディは、大学の一年生のとある女性と交際を始める。しかし、彼女がバンディの未熟な面、覇気の無さに嫌気が差した結果、交際は破綻する。

交際破綻より2年間を経て、再び彼女とバンディは交際を始め、彼らは婚約を果たす。だが婚約より2週間後、バンディは彼女からの電話に出ることがなくなり、あっさりと彼女を捨てる(尚バンディはこの時期、違う女性とも交際中)。この交際の破綻後、
バンディは3年間にわたる殺人凶行を始めた。

バンディの殺人対象者に見られる共通点、「髪を真ん中で分けた黒髪の若い白人女性」という原型はこの女性から形成されていると、ルールは考察している。


それでは、Serial Killer Ted Bundyの連続婦女暴行殺人事件を紐解いていきましょう。
彼は力に飢えていた。力を持つことが、すなわち私生児としての出生のハンデを埋めるものだと堅く信じていた。そして、この飢えを充たすためにテッドは、自らこうありたいと願う虚構の自画像を思い描いた。裕福なテッド。上品なテッド。賢いテッド。人気者のテッド…。

この虚構の実現にとって最大の妨げとなったのは、出生を巡る現実であった。
出生のハンデを埋めるために作り上げた虚構が出生のために実現されないというパラドックス。

テッド少年は苦悩し、より一層の力を欲する。そして、この悪循環の末、遂に自らの欲望にのみ従い行動する人間になり果てたのである。凶悪な殺人者としてのテッド・バンディは、図らずしも1人の女性により完成される。弟のグレンは語る。「兄をおかしくしたのはスティファニー・ブルックスだ。

あの女にさえ会わなければ、兄は殺人鬼にはならなかったかもしれない」
1965年、奨学金を得てワシントン大学に進学したバンディは、やがて背が高く、長い黒髪の美人、スティファニー・ブルックスと恋に落ちる。サンフランシスコの裕福な家庭に育った彼女は、
その容姿といい、家柄といい、学歴といい、まさにバンディの理想とする女性であった。

バンディは彼女に夢中になった。そして、早々に婚約を交わした。
しかし、彼女と釣り合いがとれたのは、あくまでバンディの虚構の自画像とであった。
現実のバンディは、貧しく、粗野で、我が儘な私生児だった。

「彼女と私はまるで高級ブティックのソックスと安売り店のローバックのようなものだった。
まるで釣り合わなかったんだ」
バンディの子供っぽさに嫌気がさした彼女は、夏の終りに婚約を破棄した。

キャンパスに戻ったバンディは、失意あまり学業も手につかず、遂には退学を余儀なくされる。
この時、バンディに克服されるべき明確な目標が誕生する。

「いつかあの女を跪かせてやる」そして、その後のバンディの行動はすべて、
この「髪の長い女」へのコンプレクスに支配されることとなる。
バンディは彼女を跪かせるために、例の虚構の自画像を、とにかく外見だけでも一つ一つ積み上
げていった。マナーを磨き、服装に注意を払い、社交的となった。そして、政治の道に進んだ。

ワシントン州の共和党員となったのだ。つまらない仕事だったが、極めて勤勉に働いた。
上院議員の中にもバンディの知性や行動力に感銘を受けた者は少なくない。
「彼ならきっと知事にまで登りつめるだろう」人々は口々にこう噂した。

多くの恋愛を経験して実践を積んだバンディは、いよいよ問題の「髪の長い女」、スティファニー・ブルックスと再会する。彼女はバンディの変わりように驚き、熱い関係は再燃する。ほどなく2人は婚約を交す。ところが、バンディは燃え上がるだけ燃え上がらせた炎をそのままにして、
プイと別れを告げてしまう。

彼女が電話で釈明を求めても、彼はニベもなく受話器を置くだけだった。
「自分があの女と釣り合いが取れることを証明して見せたかっただけなんだ」
テッド・バンディは完成した。



事件はバンディがスティファニー・ブルックスを跪かせた1974年1月、ワシントン州シアトルから始まった。

1974年1月31日 リンダ・アン・ヒーリー(21)失踪
3月12日 ドナ・ゲイル・マンソン(19)失踪
4月17日 スーザン・ランコート(18)失踪
5月 6日 ロバータ・パークス(22)失踪
6月 1日 ブレンダ・ボール(22)失踪
6月11日 ジョージアン・ホーキンス(18)失踪

彼女たちはみな、髪が長かった。
7月14日、22歳のドリス・グレイリングは、ワシントン州サマミッシュ湖畔で夫と待ち合わせていた。そこに腕にギブスをして包帯で吊った二枚目が近づいてきた。

車にボートを積むのを手伝って欲しいというのだ。彼女は駐車場までついて行った。
そこにはフォルクスワーゲンが停めてあったが、ボートは家に置いてあるから一緒に来て欲しいという。待ち合わせの時間が迫っていた彼女は丁寧に断わった。男も感じよく微笑んで礼を云った。

数分後、彼女は先ほどの二枚目がブロンドの女の子を伴って歩いているのを目撃した。
ジャニス・オット(23)である。男は「テッド」と名乗り、ボートをどうとか云っている。
ははあん、これがあの男の手口か。うまくやるじゃない。

翌日の新聞を見た彼女は震え出さずにはおれなかった。ジャニス・オットは再び生きて姿を現わすことはなかった。ジャニスが消えた数時間後、デニーズ・ナスランド(19)もまた同じ湖畔で消えていた。
私もいろいろな殺人者を知っているが、一日のうちに、しかもほんの数時間のうちに2人の女性を犯して殺した元気な男をバンディをおいて他には知らない。
その意味で彼の犯行は前代未聞であった。

この時期のバンディはシアトルの法律事務所に勤めていた。
事件当時、同僚のキャロル・ブーンはバンディの顔が「テッド」のモンタージュ写真にそっくりだと云ってからかった。これをバンディは愛想よく受け流していた。
これを冗談で済ませなかった者もいた。

当時バンディと同棲していたメグ・アンダースは、バンディこそが「テッド」ではないかと疑い始めていた。彼の机の引き出しを探すと、中からギブスと包帯が発見された。彼女は通報したが、
警察の相手にもされなかった。

彼女の恋人は、通報を受けた何千人の1人に過ぎなかったからである。
9月に入って狩猟解禁になると「テッド」の埋蔵物が山奥で続々と発見された。

例のサマミッシュ湖畔で消えた2人は、シアトル連続失踪事件の被害者たちと一緒に埋葬されていた。このことから一連の失踪事件はすべて「テッド」の犯行であることが判明した。

その時には舞台は既にユタ州ソルトレイクに移っていた。バンディがワシントン州知事の推薦状を得て、ユタ大学の法科に入学したのである。

1974年10月 2日 ナンシー・ウィルコックス(16)失踪
10月18日 メリッサ・スミス(17)失踪
10月31日 ローラ・エイミー(17)失踪
彼女たちはまたしてもみな、髪が長かった。

11月8日、キャロル・ダロンシュはショッピング・センターで二枚目に声をかけられた。
私服警官だという彼は、職業的な口ぶりで彼女の車が盗難未遂にあった旨を告げた。
彼女は何故にその車の持ち主が自分であると判ったのか不思議に思ったが、確認のために彼に従った。車には鍵がかかっていた。盗難にあった形跡はなかった。彼は容疑者の首実検のため、署まで来て欲しいという。見たこともない男の首実検など無意味だとも思ったが、
彼女は素直に彼の車に乗り込んだ。

ところが、車は署とは反対の方向に向かっている。彼女は初めて恐怖心を抱き、私服警官を名乗る男の顔を見た。二枚目は悪魔の形相に変貌していた。アイスピックで脅すと手錠をかけた。しかし、幸いなことに、彼女は既に車のドアを開けていた。そこに偶然、車が通りかかった。
彼女はこれに飛び乗り、難を逃れた。同じ日の夕方、27km離れたビューモント高校で、
教師のジーン・グレアム(24)が二枚目にドライブを誘われた。
彼女は取りあわなかったが、学生のデビー・ケント(17)は誘いに乗ってしまったようだ。
デビー捜索の過程で警察は、手錠の鍵を校庭で発見した。

スキーのシーズンともなると、バンディはコロラド州にも出張した。

1975年 1月11日 カリン・キャンベル(23)失踪
3月15日 ジェリー・カニンガム(26)失踪
4月 6日 デニーズ・オリヴァーソン(25)失踪
4月15日 メラニー・クーリー(18)失踪
7月 1日 シェリー・ロバートソン(24)失踪

その間、本拠地ソルトレイクでも髪の長い女が続々と消えていた。
そし1975年8月16日早朝、バンディはソルトレイクで遂に逮捕された。

それはまったくの偶然によるものだった。交通違反をしたバンディの車を調べた警官が、
アイスピックにスキーマスク、数本のロープに手錠一組というキャロル・ダロンシュの事件に符号する物件を発見したのである。バンディはその日のうちにも保釈金を払って釈放されたが、
ジェリー・トンプソン刑事はバンディこそがダロンシュ事件の犯人と確信していた。
トンプソンはシアトルで起こった「テッド」の事件を思い出した。ひょっとしたらバンディが「テッド」なのかも知れない。調べてみればなるほど、彼がソルトレイクに移り住んでからは「テッド」はシアトルに現われていない。

これは予想以上の大捕り物になりそうだぞ。トンプソンは早速、バンディの身辺調査を開始した。
トンプソンは初めての大物を相手に、慎重に捜査を進めた。これに対してバンディは、
自分に容疑がかけられていることを承知の上で、警察との知恵くらべを楽しんでいるようだった。
尾行者をからかう余裕さえ見せ、家宅捜査も平然と許した。
トンプソンはこの家宅捜索で、コロラド州の地図を押収した。

そういえば、コロラドでも類似の連続殺人事件が起きている
トンプソンは地道に証拠を固めていった。キャロル・ダロンシュとジーン・グレアムにも協力を願って首実検を行った。結果、2人ともバンディを選び出した。これを受けてトンプソンは、バンディをキャロル・ダロンシュの誘拐及び殺人未遂の罪で告発した。バンディはたちまち有名人となった。彼の経歴と風貌は犯罪者に相応しくなかったからだ。多くの人々が冤罪ではないかと訝しく思った。調子に乗ったバンディは警察を罵り、自分を犯罪者扱いしたマスコミを非難した。アレクサンドル・ソルジェニーツィンの『収容所群島』を携えて入廷し、
自らの境遇をこの弾圧を受けたソビエトの作家に準えたりもした。
陪審員は有罪を評決し、1年から15年の禁固刑が宣告された。

警察がバンディをこれだけで許す筈はなかった。一連の連続殺人事件で告発する準備を進めていた。一方、バンディは自ら弁護の指揮をとると主張し 国選弁護人に対しては慇懃な態度で接した。もっとも、バンディの弁護士気どりは、必ずしもハッタリだけが目的ではなかった。

アメリカでは自分で自分の弁護を務める被告人には通例、一定の行動の自由が認められている。例えば、図書室での判例集の閲覧などが許される。バンディはこうした自由を利用して、脱走を企てたのである。1977年6月7日、バンディは予審のためにコロラド州ピトキン郡裁判所に護送された。彼はいつものように図書室に入って行った。手錠と足かせは外されていた。

彼は図書室の窓を開けて9メートル下の地面に飛び降りた。
テッド・バンディ逃走のニュースは全米を駆け抜けた。付近の住民は野放しになった狂犬に怯え、
お調子者たちはバンディの快挙にエールを送った。バンディTシャツが飛ぶように売れ、
バンディ・バーガーなるものも売り出された。ヒッチハイカーは冗談で「私はバンディに非ず」の看板を掲げた。全米が現代のビリー・ザ・キッドに熱狂した。バンディの逃走劇は、決してビリー・ザ・キッドのようなカッコいいものではなかった。街を抜けた彼はアスペン山中へと向かい、2日に渡って道に迷った挙句、ゴルフ場でキャデラックを盗み、シアトルに向かう途中で地元の保安官に呼び止められた。バンディは厳重な護衛付きで拘置所に帰還した。

彼が監房から出るときは必ず足かせがはめられるようになった。
やがてバンディのコロラド州での裁判は、その係属がアスペンからスプリングスへと移されることが決定した。これを知ったバンディは判事に向かって毒づいた。
「この私に死ねというのか!」
スプリングス裁判所は、死刑判決が下る確率が高いことで有名だったのである
1977年12月30日、上の決定を受けてバンディは再び脱走を企てる。
16kgも減量した彼は、独房の天井に弓鋸で開けた小穴から娑婆に抜け出したのだ。
シアトル一帯には非常線が張られた。問題のメグ・アンダースは警察に保護された。

肝心のバンディはというと、方向違いのフロリダに向かっていた。
バンディはこの時、もう殺人から足を洗おうと考えていた。
名前を変え、別の人間として人生を再スタートさせることを決意していた。
しかし、彼の内なる欲望が、彼に平凡な生活を許さなかった。
バンディは殺しの衝動をもはや制御できなくなっていた。

1978年1月15日午前3時、フロリダ州立大学の学生ニタ・ニアリーは恋人に別れを告げると、
裏口からこっそりとカイ・オメガ女子寮に帰宅した。ふと正面玄関から外を見ると、
そこには1人の男が棍棒を握りしめて佇んでいた。ただごとではない。通報しようと電話に急ぐと、
カレン・チャンドラーが血みどろでよろめき出た。頭を殴られている。
キャシー・クライナーもやられていた。

顎を砕かれている。マーガレット・ボーマンとリサ・レヴィーは血の海の中で倒れていた。
マーガレットは既に息絶え、リサも救急車の中で絶命した。
信じられないことだが、バンディの夜はまだ終っていない。

カイ・オメガの惨劇から1時間半後、数ブロック離れた別の女子寮に住むデビー・チカリッソは、
隣室からの激しい物音で目を覚ました。時計を見るとまだ5時前だ。
ルームメイトを起こして2人で聞き耳を立てると、何かを叩くような音に続いて、
慌ただしい足音が聞こえてきた。2人は意を決して隣室の扉を開けた。

そこにはシェリル・トーマスが頭を割られて 血みどろで倒れていた。
バンディは何故、こんな大それたことをやらかしたのだろうか? 派手な行動は自分の居場所を教えるようなものだ。長い拘束からの解放感が彼の理性を狂わせたのだろうか?
バンディはもう殺人をやめたかった。しかし、自分だけではやめることが出来なかった。
だから、誰かに止めてもらいたかった。
フロリダ州は死刑判決が下る可能性が最も高い土地である。

それを知ってバンディは、この地を選んで凶行に及んだ。
つまり、彼は死刑になりたかったのである。私はこの解釈は真実に近いと考えている。
それは意識的なものではなかったかも知れない。
無意識に自己破壊願望が働いた蓋然性はかなり高い。

何故なら、バンディは今回初めて物証を残したからである。
これがバンディの致命傷となった。その物証とは、リサ・レヴィーの臀部に残された歯形だった
女子寮での惨劇を繰り広げたバンディは、しばらくは偽名でその地に潜伏していたが、
誰も自分がバンディと気づかないことに業を煮やしたのか、車を盗むとシアトル方面へと向かった。

そして、最後の犠牲者たるキンバリー・リーチ(12)を手にかけた直後に逮捕された。
1979年7月23日バンディは死刑を宣告された。


判決に際してのカワート判事の発言が有名である。
「からだには気をつけなさい。このような人間性の浪費を見たのはこの法廷にとっても悲劇でした。
君は頭のいい青年です。立派な法律家になったかも知れない。

君がこの法廷に弁護士として立っていればどんなによかったかと思う。
私は君に敵意はまったく持っていない。これは信じて欲しい。しかし、君は道を間違えた。
からだには気をつけなさい」バンディはこれをどんな気持ちで聞いていたのだろうか。

いずれにしてもバンディは、監獄でもいろいろと暗躍した末に(未解決連続殺人事件の捜査協力を申し出て、少しでも生き長らえようとした)、1989年1月24日、電気椅子により処刑された。42歳だった。

その処刑を伝える新聞の見出しには「殺人鬼は笑みを浮かべて死んだ」いかにも彼らしい死にざまですよね。

FBI捜査官 ロバート・K・レスラーは、フロリダの刑務所にいたバンディに会いに行き、彼と面談を行ったことがある。バンディが有罪となり、上訴請求が棄却されてから、FBIの調査プロジェクトのために、レスラーはバンディとの面談を望んでいたが、あるとき、バンディがレスラーに手紙を出し、面談が実現した。バンディが手紙を送ったのは、FBIの調査資料を入手して自分に課された死刑宣告を覆すためであった。しかし、レスラーは資料の受け渡しを拒否し、バンディが犯した犯罪にしか興味が無いと告げた。するとバンディは、「自分は上訴に勝つ。

死刑にはならない」と豪語したという。レスラーの質問をのらりくらりとかわしたり、
自分の犯した殺人については3人称を使って話し、「自分がそうした」と、はっきりとは認めなかった。レスラーは、バンディが真実を語ることは決して無いと考えたという。

それまで冤罪、無罪を訴えて久しかったが、死刑執行の3~4日前になって、バンディは全てを話すと言い出した。全国から警察官が集まり、バンディの話を聞くことになった。

バンディは初めての殺人について曖昧に話し続け、時間がかかりそうなので死刑を延期するよう請願をしてくれれば全部話せると言ったが、受け入れることはなかった。

最終的には自分の罪を認め、その上で「私は暴力の中毒だった」と語り、
寂寥感にあふれた顔を見せた様です。




2013年8月27日火曜日

Miles Davis / Doo Bop (1992)

Jazz界の帝王として君臨した、Miles Davisの遺作品
衝撃のニュースから早や22年の月日が流れました。

1991年9月28日、肺炎のため死去。65歳没。 死後の2006年、ロックの殿堂入りを果たした。
Miles Davisからの最後のプレゼントはJazzとHip Hopを見事に融合させた最先端のJazz作品です。

サウンドメイキングを全てEasy Mo Beeに任せてHip HopとJazzを最高の形でミックスしています。
これ以降にDoo-Bopの影響でJazz Rapなる全く新しい発想から誕生した、Hip Hop Musicが時代の最先端を走る時がありましたね。Doo-Bopは、まさしく、Jazz Hip Hopの夜明け前の貴重な作品。
 
1. Mystery
2. The Doo Bop Song
3. Chocolate Chip
4. High Speed Chase
5. Blow
6. Sonya
7. Fantasy
8. Duke Booty
9. Mystery (Reprise)

帝王Miles Davisは最後までストリート・ミュージックに興味を示していた。
俺は、このアルバムは大好きで今現在でも良く聴いています。

Milesのトランペットに問題があるわけでもないし、バックのトラックも大好きですし。
少なくとも、俺の中では、カムバック後のMiles Davisのアルバムの中では大好きなほうです。

Jazzの愛聴家からはJazzとしては価値の無い駄作だと言われていますが、
僕は、Miles DavisをJazzだと思って聴いた事がないのでと言った事がありますね。

極論を言うと、Miles Davisが世に出してきた音楽をJazzで括らなくてもいいのではないかとも思う。
Miles DavisのアルバムにはJazzを聴く耳で聴いていない作品も多くあるので。

死刑台のエレベーター - Ascenseur Pour L'Echafaud (Lift to the Scaffold) (1958)、
Porgy And Bess (1958)、Sketches of Spain (1959)そしてエレクトリック化以降において、
少なくともマイルスのエレクトリック化以降から一時引退直前のAgharta (1975)、Pangaea (1975)
までの時期はJazzでもJazz Fusionでもなく、ひとつの独立したジャンルのように思います。

この時期のアルバム群の先進性、深遠さ、濃厚さ、妖しさ、闇の深さは尋常ではない。
マイルスは何度も体調を崩し、麻薬にも耽溺したであろう。

そんな状況下で正気と狂気の間を彷徨い、孤高の闘争をしながら、商業Jazz Fusionとは無縁の志高く一筋縄では語れない高水準の音楽を思考し続けたのがMiles Davisの凄さだと思います。

当然、この最後の遺作もくだらない、ジャンル別けは無意味な事はわかると思います。
何だかMiles Davisはノビノビと吹いているように感じますね。

Hip Hopのグルーヴをバックにリズミカルに音をヒットさせるところなどはさすがだと思う。
昔取った杵柄がHip Hopにも通用しているという事なのだろうと感じますね。

最後の最後、帝王Miles DavisはHip Hopのサウンドをバックに、自分の出来得る範囲内であまり無理せずに演奏し、旅に出てしまったのが少し残念ですが、
最後の傑作作品を聴いて楽しく過ごしたいですね。

2013年8月11日日曜日

天狗舞 山廃純米

昔ながらの山廃造り、山吹色の酒で有名な稀代の銘酒。
日本酒が大好物な俺の特別大好きな石川県の銘酒です。


天狗舞は、昔ながらの山廃仕込みと熟成によってできた日本酒です。
特に、山廃純米酒は、山吹色で芳醇な味わいが特徴ですよね。
通常、市販されている多くの酒は炭素濾過されていますので、酒本来の色合いや旨みもなくなってしまいます。山吹色のこの天狗舞は、むしろ、自然な風合いといえるのではないでしょうか。
石川県の車多酒造が追い求める”本物の酒”こそが、天狗舞 山廃純米だと、俺は思います。

2013年8月10日土曜日

Richard Leyva Ramirez

久し振りの更新になりますが、俺の大好きなSerial Killer 連続殺人犯の紹介のコーナーです。
第3回目、今回、ご紹介するのは、Richard Leyva Ramirezです。
Night Stalkerと別名も持つ殺人鬼

Richard Leyva Ramirezは1984年から1985年にかけて、ロサンゼルス郊外を中心に無差別に民家を襲撃し、暴行、レイプ、強盗などを働き、うち13人を殺害しました。

Serial Killer 連続殺人犯の中では、
犠牲者数が13人と少し少ないのですが、Richard Leyva Ramirezはファンの多い殺人鬼ですね。


1984年6月から1985年8月にかけてロサンゼルス市民を震撼させた連続殺人事件はプロファイラー泣かせだった。通常の連続殺人犯には犠牲者に一定のパターンがある。例えば、
髪の長い女性だとか、売春婦だとか、あるいは少年だとか。ところが、この犯人にはそれがない。

なにしろ最初の犠牲者は79歳の老婆だったのだ。侵入した家に少年がいれば、その肛門を犯している。つまり誰でもよかった様ですね。

犠牲者に共通点があるとすれば「侵入しやすい家に住んでいた」ということなのだろう。
その手口は毎度同じで、寝室に忍び込み、男が寝ていれば22口径で頭を撃ち殺害する。

他に女や少年がいれば犯して殺す。たまに殺さないこともあったが、そこらへんは適当なんですよね。金品を奪うこともあれば奪わないこともある。やはりこれも適当ですよね。

目的が強姦なのか強盗なのか今一つ判らないのが変な魅力になっています。
殺さないこともあったから、大凡の人相は割れていた。背が高く痩せたヒスパニック系で歯はボロボロ、異臭がしたという。おそらく覚せい剤中毒者である。

風呂に入っていないので極端に異臭がする様ですね。
Richard Leyva Ramirezの凶行は、悪魔崇拝のほかに、13歳のときに聞いた従兄弟の話にも影響を受けていると推測されている。

彼はヴェトナム戦争の時にアメリカ陸軍特殊部隊グリーンベレーの隊員として活躍していたと自慢し、ヴェトナム人の女性を虐待し、バラバラに切り刻んだ話を得々と語り、写真まで見せていたが、まったくのホラ話だった。また、この従兄弟が自分の妻を殺害した時、その現場に居合わせ、
返り血を浴びたと伝えられているが、真偽は定かではない様ですね。

米国の大人気のRockバンドのMarilyn Mansonのベースギター演奏者のTwiggy Ramirezも、
Richard Leyva Ramirezから芸名を拝借しているファンの一人です。

その人気者のRichard Leyva Ramirezの生い立ちから、犯行、逮捕時、現在に至るまでを紐解いて行きましょう。中々、楽しめるRichard Leyva Ramirezですよ。

1960年2月28日、テキサス州エル・パソで、鉄道会社勤務の父ジュリアン・ラミレスと母メルセデスとの間の子(7人兄弟の末っ子)として生まれました。ラミレス家は厳格なカトリック教徒で、
幼いリチャードも両親と一緒にミサに通っていた様ですね。

9歳ごろから万引きや窃盗などの軽犯罪に手を染めだします、
14歳になった辺りからマリファナ吸引をはじめるなど、非行行為が目立つようになってきています。

当時の友人たちの話では、ラミレスは幼い頃からすでに一匹狼として行動することが多く、
地元の少年ギャングのグループに加わることはなかったが、
必要に応じてグループの高級住宅地荒らしを手伝ったりしてドラッグを買う金を稼いでいた様です。それにも飽き足らず仲間から金をすり取ったりしたため、
不良少年たちの間で「こそ泥リッキー」と陰口を叩かれていた様ですね。

早くからHeavey Metal Rockに傾倒するいっぽう、教会の聖書勉強会で悪魔に魅せられるようになり、悪魔関連の書物を読み漁るようになったのもこのころだった様ですね。

地元のジェファーソン高校へ入学したものの、何事に対しても無気力無関心で、ほとんど授業に出席せず、学校行事にも一切参加しなかった。17歳で高校を中退したのち、
マリファナ不法所持でエル・パソ警察に三度逮捕され、1982年には保護観察処分を受けたが、
ほどなく出奔し、二度とエル・パソに戻ることはなかった様です。

1982年、サンフランシスコに住む自分より年上の女友達を頼ってカリフォルニアに出てきたラミレスは、1983年にロサンゼルスに移るまで彼女の家で過ごしています。

彼女の娘婿の話によると、当時のラミレスは銃とナイフに強い興味を持ち、その話ばかりをしていたが、ロサンゼルスに移ってからはコカインに手を出し、悪魔崇拝に傾倒していたという。

ロサンゼルスでのラミレスは完全な根無し草で、バックパックに全財産を詰めて、
どや街の安ホテルや簡易宿泊所を転々とし、金がないときは路上や駐車中の車に潜り込むなど、
ホームレス生活を送りながら、窃盗を働いたらしいです。

このころのラミレスは、ドラッグに溺れているだけでなく、コーラやカップケーキなどのジャンクフードを常食し、また衛生観念もなかったため非常に不潔で痩せ細っていた。

ロサンゼルスに移ったその年のうちに、ラミレスは自動車窃盗で逮捕され、
懲役5ヶ月の実刑判決を受け、翌年にもやはり自動車窃盗で36日間服役しました。

僕の推測ですが、この逮捕と服役がラミレスに心の中の悪魔的な精神部分を目覚めさせたのでしょうね。いよいよ、最初の殺人に及ぶ瞬間が近寄ってきています。

Richard Leyva Ramirezが犯した最初の殺人は、彼がロサンゼルス郡刑務所を釈放されて間もない1984年6月28日に起こりました。ラミレスはロサンゼルス市イーグル・ロック地区のアパートの一室へ押し入り、そこの住人である79歳の女性をレイプした上、めった切りにして殺害したのである。

遺体は激しく傷つけられており、首が皮一枚でつながっているようなありさまだった。
また、窓と網戸からは犯人のものと思われる指紋が検出されていたが、
この時はラミレスに結び付かなかったのが連続殺人に発展していきます。

第2の犯行はそれから9ヶ月後の1985年3月17日深夜、ロサンゼルス近郊のローズミードのアパートを物色していたラミレスは、ガレージに車を入れて自分の部屋に戻ろうとした女性を拳銃で撃ち倒した。彼女の部屋へ押し入り、キッチンでルームメイトである34歳の女性会社員の頭部を撃ち抜いた。その後、射殺したはずの女性と出くわしたラミレスは、命乞いする彼女を無視して立ち去った。この事件では生存者にはっきりと顔を目撃されているだけでなく、ラミレスがかぶっていた、
超人気、RockバンドのAC/DCのロゴ入り野球帽が発見されています。

ラミレスはローズミードでの凶行から1時間もしないうちに、第3の殺人を犯している。
ノース・アルハンブラ・アヴェニューで次の獲物を漁っていた彼は、台湾出身のロー・スクール の学生(30歳)が運転する車を止めさせ、彼女を引きずり出すと数発打ち込んだのだった。

救急車が呼ばれたものの、到着を待たずして大学院生は死亡しました。
3月17日の凶行から10日後の3月27日、ロサンゼルス郊外のサン・ゲイブリエル・ヴァレーの中流住宅街でレストランのオーナーの64歳の男性と、妻で44歳の弁護士が惨殺されているのを帰宅した息子が発見する。直接の死因は射殺で、夫は書斎のソファで、妻は全裸で寝室のベッドでそれぞれ絶命していたが、とりわけ妻の遺体の損壊が激しく、生きたまま両目をえぐられていた。

ここでも数多くの手がかりを残しており、これらの証拠から、捜査に当たった、
ロサンゼルス郡保安官事務所は、新たな連続殺人犯が出現したのではないかと危惧し始めます。

この時点では、3月17日の双方の犯行を最初の事件とみなしていたため、
1984年の老婦人殺害を一連の連続殺人と関連付けるまでにはもう少しの時間が必要であった。

また、マスコミはこの連続殺人者に「峡谷の侵入者(The Valley Intruder)」という異名を与えたのです。第4の事件から約2ヶ月後の5月14日、ラミレスは女性大学院生が襲撃された現場から程近いモンテレー・パークの近くに住む老夫婦宅を襲撃。66歳の日系アメリカ人男性を射殺したあと、
現金や宝石類を奪ったうえ、63歳の妻をレイプして逃走した。

それから2週間後の5月30日には、バーバンクの民家を襲撃。12歳の息子をクローゼットに閉じ込めた上で、母親をレイプし、金品を奪って立ち去ったが、ここでもラミレスは警察を嘲笑うかのように素顔をさらして犯行に及んでいる。モンロビア在住の83歳の元女性教師と80歳の妹がラミレスの襲撃を受け、2日後の6月1日に瀕死の状態で発見される。

妹の方は一命を取りとめるが、元教師は6週間後に死亡した。
これまでの犯行と同様に、家のなかは荒らされ、ここでもラミレスは凶器のハンマーなど大量の証拠を残しているが、そのなかでもとりわけ刑事たちに衝撃を与えたのは、元教師の太腿に口紅で悪魔のシンボルである逆五芒星が描かれていたことであった。

この五芒星は妹の部屋の壁にも描かれていた。
逆五芒星とは、地の底 即ち、地獄とのつながりを示すと言われている、
悪魔崇拝者の間では有名なシンボルマークの一つなんです。



モンロビア事件から1ヶ月近く経った6月27日、32歳の女性がアーケイディアの自宅で喉を掻き切られて死んでいるのが発見された。この事件を皮切りに、ラミレスの狂乱ぶりはピークに達していきます。既にこの頃になると、『ロサンゼルス・ヘラルド・イグザミナー』紙の記者がこの連続殺人犯に新たな呼び名を付けます。その名前こそが、「ナイト・ストーカー(Night Stalker)」です。

7月2日には、アーケイディアで75歳の老婦人が同様に喉を掻き切られて殺害されているのが発見される。7月5日、やはりアーケイディア在住の16歳の少女がナイト・ストーカーの襲撃に遭い、
バールで殴られた上レイプされたが、生命だけはとりとめている。

二日後、61歳の女性がモンテレー・パークの自宅で撲殺されているのが発見された。
さらに同じ夜、近所に住む63歳の看護婦が自宅で襲われ、レイプされた後金品を奪われた事件が起きます。2週間後の7月20日、この日の夜、ラミレスはそれまでにも増して異常な狂乱振りを発揮している。一晩のうちに、グレンデール在住のガソリンスタンド経営者夫婦を射殺。

その後サン・ヴァレー在住の32歳のアジア人男性宅を襲撃、男性を射殺、
29歳の妻に悲鳴をあげないよう悪魔に誓わせた上でレイプした。

さらに8歳の息子もレイプし、3万ドルの現金と宝石類を奪って逃走。
8月8日には、サン・ゲイブリエル・ヴァレー在住のアジア人男性宅へ押し入り、男性(35歳)を殺害、
妻は殴り付け、悪魔に忠誠を誓わせた上でレイプしている。

8月17日には、ラミレスはサンフランシスコにまで足を伸ばし、
会計士の中国系アメリカ人男性(66歳)を射殺、妻にも発砲したが、彼女は生き延びた。
その後、口紅で壁に逆五芒星と「Jack the Knife」という言葉を書き残している。

最後の犯行は、8月24日にロサンゼルス南方のミッション・ヴィエホ在住のコンピュータ技師と婚約者の自宅でおこなわれた。いつものように男性の頭を撃った後、女性をレイプしたラミレスは、
婚約者に悪魔への忠誠を誓わせる儀式を強要させ、立ち去った。

男性は頭部に3発撃ち込まれたものの奇跡的に一命を取りとめた。
Richard Leyva Ramirezの一連の凶行を、捜査に当たったロサンゼルス郡保安官事務所が正式に連続殺人事件と断定したのは1985年6月、最初の老婦人殺害から実に1年後のことだった。

ラミレスが犯行現場に大量の手がかりを残しておきながら、結果として警察の捜査の手を逃れていたのは、従来のプロファイリングが描き出す犯人像に当てはまらないためであった。

犯行方法が一貫せず、犠牲者の人種や年齢や性別にばらつきがあった。
このため、連続殺人の疑いが早くから持たれていたにもかかわらず、
これらの事件を関連付けて捜査することに警察側が躊躇していたのだ。

しかし、生存者の目撃情報や、現場に残された各種の証拠品を総合した結果、
ロサンゼルス郡保安官事務所は一連の事件を連続殺人犯の仕業と断定。

ただちに特捜班を編成した。ロサンゼルス市警察本部も独自の捜査班を設置して保安官事務所の特捜班と合同捜査チームを編成、このチームには「ヒルサイド・ストラングラー」特捜班の古参メンバーが優先的に投入され、最終的には200人を超える捜査員が専従捜査に当たることになり、
市民に情報提供を呼びかける一方、マスコミを利用して、犯人を炙り出すため、
警察が犯人の正体を掴んでいると匂わす、「プレッシャー作戦」と呼ばれる情報戦を展開。
着々と包囲網を狭めていった。最終的にラミレスが捜査班の網にかかったのは、
8月24日の犯行の被害者を始め、多数の近隣住民がラミレスの運転する車を目撃しており、
証言が完全に一致したこと、ラミレスの友人が警察に通報してきた特徴が、
ナイト・ストーカーのそれと一致したことだった。

そして、ラミレスが運転していたと思われる車が乗り捨てられているのが発見されると警察は直ちに車を押収して調べ上げます。指紋は念入りに拭き取られていたが、レーザー光線を照射して辛うじてひとつの指紋が検出された。指紋はすぐ、FBIで導入されたばかりの最新の指紋検索データベースにかけら、わずか数分で不法侵入と窃盗の常習犯であるラミレスのファイルが表示されたらしいです。ちなみに、ラミレスの指紋が検索される数日前に1960年1月1日以降に生まれた犯罪者の指紋情報が新規に追加されたばかりであった。

もしラミレスがそれより数ヶ月早く生まれていたら、
指紋による身元確認は大幅に遅れ、さらに犠牲者が増えていただろう。
捜査当局は緊急記者会見を開き、リチャード・ラミレスがナイト・ストーカーであると断定し、
指名手配を行なうことを発表します。

1985年8月31日、ラミレスはアリゾナ州フェニックスからロサンゼルスに戻ってきた。
コカインを手に入れるために数日ロサンゼルスを離れていたラミレスは、
自分が指名手配されていることも知らず、意気揚々と街を闊歩していた。

やがて行き付けのコンビニエンスストアに入り、好物のドーナツとペプシコーラを買おうとレジに立ったとこで、自分の顔写真がデカデカと載った地元紙の一面が目に飛び込んだ。

自分が殺人犯として指名手配されていることに気付きパニックに陥ったラミレスは店を飛び出し、
3キロをわずか10分で走りぬけている。その後、3度にわたって自動車を強奪しようとして失敗、
追いつめられたラミレスはヒスパニック系住人が多く住む地区へ逃げ込んだ。

同胞に対する慈悲を期待してのことだったが、住民たちは逆に怒りを剥き出しにしてラミレスを追いたてた。というのも、ただでさえお決まりの人種差別で腹立たしく思っているところへ、
ナイト・ストーカーの正体がヒスパニックの男だというので、非常に肩身の狭い思いをしていたのだ。ナイト・ストーカーが自分たちの街に逃げ込んできたと聞いた住民たちは、
それぞれ怒りに燃えながらラミレスを追いまわし、とうとう彼は身柄を押さえられるに至った。

通報を受けたアンドレアス・ラミレス保安官代理(同姓で年齢も同じく25歳だがむろん無関係)が現場へ駆けつけた時には、殺気だった住民らにリンチにかけられる寸前だったという。

ラミレス保安官代理が現場へ到着すると、ラミレスは、こいつらに殺される前に俺を捕まえてくれ!と泣き付いたという、なんとも、お粗末な逮捕の瞬間を迎えます。

この後は、逮捕後から裁判でのRichard Leyva Ramirez Night StalkerのSerial Killerとは、
思えない、なんとも、情けない姿をご紹介します。


Richard Leyva Ramirezは逮捕後も弁護士の選任でさんざん渋り、6人の弁護士を選任しては解任し、やっとサンノゼ在住のアルトゥーロとダニエル・エルナンデスというヒスパニック系の弁護士ふたりが選任されたが、刑事裁判の経験が浅かったため、公判の開始直前に彼らの補佐という名目でベテラン弁護士レイ・クラークが事実上の主任弁護人として選任された。

また、裁判が行なわれる場所が犯行現場に近いと文句をつけて「陪審員に先入観を持たれているに決まっている、不利だ」とごねた。これは公判の引きのばしのためだったがこの策は成功し、実質的な裁判が始まるまで3年半もの時間がかかりました。

1989年1月に陪審員の選任手続きが終わり、ロサンゼルス高等裁判所の法廷で本格的な審理が始まったが、評決まで実に半年もの長期に及んだ。
これは提出された証拠物件や召喚された証人の数が桁外れに多かったことや、審理中、
ラミレスが判事に向かって卑猥な言葉を吐いたり、傍聴人やマスコミに手のひらに描いた悪魔のシンボルをこれ見よがしに見せるといった悪ふざけをして退廷させられるなど混乱を招いたためだった。また、陪審団も相次ぐトラブルに見舞われた。

まず陪審評議に移って13日目に男性陪審員が居眠りをして即座に解任された。それから2日もしないうちに無断で外出した女性陪審員が愛人の男性に射殺され、
愛人も自殺するというスキャンダラスな事件が発生した。このため日頃から悪魔主義的な主張をしているラミレスが、悪魔の力を借りて裁判を妨害しているのだとオカルティックな噂が囁かれる有様だったようですね。

波乱含みの裁判だったが半年の法廷審理と22日間に及ぶ陪審評議の結果、
1989年9月、63件の訴因についてほとんどすべてが有罪と認定された。
13件の殺人中12件が第1級殺人とされ、1件は第2級殺人と認定された。

さらに殺人未遂・婦女暴行・強盗など30の重罪についても有罪の評決が下された。
続く5日間の量刑審議は評決が6対6で一時デッドロックに陥ったが、
最終的には10対2の多数決で死刑が評決された。

公判を担当したマイケル・タイナン高裁判事が判決の前に何か言いたいことがないかという問いに、ラミレスは以下のように答えています。

言いたいことは山ほどある。だがここでは言いたくない。第一俺は何故こんなところで無駄に息をしているのかわからないが、そんなことはどうでもいい。……俺について今まで散々嘘八百が並べ立てられたが、これからもそうだろう。俺はこの文明社会という奴の偽善的で道徳的な意見なんか信じない。お前らのようなウジ虫野郎どもを見ていると反吐が出る。どいつもこいつも偽善者ばかりだ。……あんた(判事)なんかに俺のことはわかりゃしない。誰かに理解してほしいとは思わないし、理解できるはずもない。俺はあんたの経験を超越しているのさ。
俺は善悪の基準を超えているんだと吐き捨てています。

結局、第1級殺人12件について12回の死刑判決、その他の訴因について59年4ヶ月の懲役刑を下されたラミレスはそれを聞くと高笑いし、記者たちに「大した扱いだ。死は縄張りとともにやって来る」と言い、「人間、死ぬのも仕事のうちさ。ではディズニーランドで会おう!!」と手を振った。

なお「ディズニーランド」とは、「デス・イン・ランド(Death In Land)」のもじりであり、
また規則が甘く、囚人にとって楽な刑務所を意味する言葉です。

現在はサン・クエンティン刑務所に拘留され、控訴の結果を待っている。
1996年10月、グルーピーのひとりであった女性と獄中結婚。刑務所内で結婚式を挙げて下ります。

2013年NFL プレシーズン開幕!!

いよいよ、待ちに待った今年度のNFLの開幕前のプレシーズンゲームが開幕しました。
我らが、Washington Redskinsですが、現地時間2013年8月9日にTennessee Titansと対戦しました。

レッドスキンズはひざをリハビリ中のRGことQBロバート・グリフィンIIIが欠場して、少し寂しい感じですが、
同期生の2年目QBカーク・カズンズがパス7回中6回成功、52ヤード、1TD、レイティング137.2の好プレイを披露してくれました。今年もWashington Redskinsの攻撃陣はタレントが豊富で期待大ですね。

2013年8月1日木曜日

Bren Ten

1983年から1986年のわずか3年間だけ、市場に出ていた、隠れた銃の名品です。
ブレン・テンは、1983年にアメリカのドーナウス&ディクソン社によって開発・販売された自動拳銃です。
ブレン・テンの「テン」は10mmの口径を指していると言われて下ります。
1980年代初期にアメリカの都市圏では強力な拳銃を所持した犯罪者が増加し、
警察官が主に使用していた.38スペシャル弾や380ACPでは威力不足であると考えられていました。
然し、コルト・ガバメントに代表される.45口径の拳銃はどれも大きく重く、
警官の携行銃としては不向きだったらしいですので、一部で人気のあったマグナム弾使用銃は殺傷能力が高すぎて、公的機関用としては使用が難しかったので。今ではスタンダートとなっている9mmパラベラムは、
この頃、威力不足という噂や偏見によって使うことを嫌われていたと言われて下ります。
そのため十分な威力を持ちつつ警察官携行用にも適した製品の一つとして10mmオートという弾丸が考えられはじめました。これは9mmパラベラムよりも強力で.45ACPよりも小さく(.45は約11.43mm)
.357マグナムに匹敵するマンストッピングパワーを持つとされた弾丸であります。
銃本体は、当時コンバット・シューティング(実戦的射撃術)の第一人者であったジェフ・クーパーが開発に参加し、チェコスロバキアの傑作自動拳銃Cz75をベースに作られて下ります。
これだけ理想的なスペックを詰め込み、FBIが10mmオート弾を制式採用したにもかかわらず、
市場では、全く、売れない銃でした。売れなかった理由としては、マガジンケースの生産が販売に間に合わなかったことが一つの要因とされているが、理想的なスペックを追い求めた結果これといって特徴がなく魅力の乏しい銃になってしまったせいではないかという指摘もあります。
10mmオート弾ということもあって、9mmパラベラム弾のCz75より初速は速く、
銃としての性能そのものは優れていたのも事実です。


口径 10mm 銃身長 127mm 使用弾薬 10mmオート
装弾数 11発 作動方式 ショートリコイル
全長 222mm 重量 1070 g 銃口初速 410m/s

2013年7月21日日曜日

Studio One

強烈なMusicソフトStudio One!!
近年は、自宅で曲を作れる時代ですよね。
面倒で費用の高額なスタジオで作業しなくても、自宅でPCがあれば曲作りに没頭できますよね。
その、究極のソフトが今回ご紹介する、Studio Oneです!!
先ず、僕自身が触った感想からですが、正直言って最初は期待はしていませんでしたが、
作業を進めていく度に驚きと感動で震えました。
 
Studio Oneの生みの親は、ドイツの名匠ヴォルフガング・クンドゥルス氏だ。クンドゥルス氏はSTEINBERG CubaseをATARI用の初期バージョンのころから手掛けたソフト開発者。
Studio Oneの開発はこのクンドゥルス氏および、フリーウェアのシーケンサーKRISTAL AUDIO ENGINEやSTEINBERG Cubase/Halion/Plex/VSTテクノロジーを手掛けたマティアス・ユーヴァン氏を中心に行われた。

Studio Oneは64ビットOSに対応し、32ビットOSの限界であった4GB以上のRAMを利用することが可能(32ビットOS版も用意されている)。さらに混同しがちなのだが、64ビットOS対応とは別に、Studio Oneの最大の特長として"64ビット・オーディオ・エンジン"の搭載が挙げられる。

プロセッシング/ミックス/バス/エフェクト/インストゥルメントまですべて64ビット浮動小数点(32ビット浮動小数点にも切り替え可)処理だ。多くのDAWが32ビット浮動小数点を採用していることからも、Studio Oneがいかに高品位なサウンドを志向しているかが分かると思います。

その64ビット・オーディオ・エンジンによる高音質設計だけでなく、シングル・ウィンドウの採用、複雑なメニュー・リストに頼らないドラッグ&ドロップ方式、さらにマスタリングに対応する"プロジェクト画面"も別途用意されるなど、ユーザー目線に立った使いやすさを徹底的に追求。

さらに注目すべきは、オーディオ編集機能にCELEMONY Melodyne Essentialを組み込み、DNAテクノロジーによるピッチ解析/編集が可能となっている点。さらに録音テイクのつなぎ=マルチトラック・コンピングや、マスタリング時のDDPの書き出し、VST3プラグインへの対応など、充実した機能を誇っているのがStudio Oneです。


それでは、Studio Oneの凄さをじっくりと説明していきます。
まずスタート画面で"新規ソングを作成"を選択をします。

Studio Oneでは曲作り~ミックスを行う画面を"ソング"、マスタリング用の画面を"プロジェクト"と呼びます。

ソングを立ち上げると、縦にトラック、横に時間軸というDAWでおなじみの画面が現れます。
Studio Oneはシングル・ウィンドウ方式を採用しているので、基本作業はこの画面だけです。

細かなオーディオ/MIDI編集をしたいときは右下の"編集"ボタンを押せば、
下部に選択イベント(他のDAWで言うところのリージョン)の拡大表示が現れますし、
"ミキサー"ボタンでフェーダーを呼び出したり、"ブラウズ"ボタンでパソコン内の
オーディオ・ファイル/VST/Audio Unitsプラグイン/プラグイン・プリセットなどの一覧表示も可能。そのブラウズから使いたい、オーディオやバーチャル・インストゥルメントを中央画面にドロップしていけば、それに対応したトラックを自動的に作ってくれます。

非常に優れた操作感で、ユーザーのニーズがよく分かっていますね。




録音は非常に簡単。
各オーディオ・トラックの"オーディオI/O設定"をクリックすると入力ポートの設定画面が現れるので、オーディオI/Oのどの入力をアサインするかが選択できます。

とにかく細かいことを気にせずに録音に集中できます。
肝心の録り音ですが、お世辞抜きで最高に良いです! 

いつもと同じマイクプリ&オーディオI/Oで録音したのに、
こんなに音が違うとは......ハイエンド・オーディオを聴いているときの立体感というか、
みずみずしさというか、"本物の音"が流れてくる感じがします。

Studio Oneに付属するバーチャル・インストゥルメント、Mojitoのフレーズを打ち込んでみましょう。
バーチャル・インストゥルメントの立ち上げも非常に簡単で、
ブラウズの"インストゥルメント"タブからMojitoの項目を見るといろんな名前のプリセットが並んでいるので、気になったものをソング画面へドロップすればOK。

Mojitoはアナログ・シンセを模したシンプルな作りで、イマドキなサウンドという印象。
エレクトロニカなどで重宝しそうなソリッドな音にドイツらしさを感じます。

MIDI打ち込みは外部MIDIキーボードのほか、"編集"ボタンで現れるピアノロールから行えます。

手弾きで"ズレたな"と思ったら"Q"キーを押せば設定した値へ瞬時にクオンタイズしてくれますし、
逆に人間的なヨレを作り出すヒューマナイズという機能も、エレピの打ち込みなどで
便利に使えると思います。

さすがCubase/Nuendoの開発者が作っただけに、MIDI関連の自由度は非常に高いですね



Studio OneにはMojito以外にも3つのバーチャル・インストゥルメントが付属。

いずれもサンプル・プレイバック・タイプで、まずPresenceはピアノ/ストリングス/パーカッションまで充実の音色を誇るマルチ音源。Impactはパッド・タイプのリズム・マシンで、ビート・メイクに重宝するだろう。

SampleOneはシンプルなサンプル・プレーヤーで、ソング内のイベントをドロップして使うことも可能

ノーマライズ、反転、ストリップ・サイレンス(無音部分を非イベント化)など一般的なファンクションももちろん用意されていますし、個人的にはイベント単位でボリューム・エンベロープが設定できるのが好印象。

トランジェントの自動検出機能も付いています。オーディオのアタック部分に自動でベンド・マーカーを打ってくれて、それを基準にオーディオのクオンタイズを可能にしてくれる機能です。
一定のリズムを刻むパートのタイミング合わせなどに最適でしょう。
それからオーディオ自体のグルーブを抽出して、ほかのオーディオのタイミングをそれに合わせるなんてことも可能です。

 


ボーカルなど、複数テイクから良い部分だけピックアップして1つのトラックにまとめる"コンピング"機能も装備しています。L/Rルーラーで指定した範囲をループ・レコーディングすると、
自動的にトラックの下に"テイク"が増えていきます。

それらを聴き比べながら、"部分的にこのテイクが良い"と思ったら範囲指定をしてダブル・クリックするだけで本チャン・トラックにその部分が反映。

しかもテイクの切れ目に自動的にクロスフェードをかけてくれるので、プチ・ノイズが起こることもありません。ボーカル録りはもちろん、ギターのつなぎでもこの機能はかなり役立つはずです。

ループ・レコーディングで複数のボーカル・テイクを録り、
それらのテイクから良い部分だけをつなぎ合わせるコンピング機能を標準搭載。
一番上のトラックが、下の複数テイクからいいトコ取りをしたものだ。

つないだオーディオ間のクロスフェードも自動的に行ってくれる

Studio Oneの最大トピックの1つとして、
何とピッチ補正ソフトのMelodyne Ess entialを内包していることが挙げられます。
ここでは既存のボーカル・テイクの音程を人工的にいじって「ハモ」を作ってみることにしましょう。

手順は、編集したいオーディオ・イベントを選んでctrl+M(Macの場合はcommand+M)を押すと、MelodyneがON状態になってピッチの自動分析が始まります。

ピアノロールに分析されたノートが並んだら、後はそのノートを好きに移動させていけばいいだけ。
上下の音程だけでなく、左右に動かせばタイミングもコントロールできちゃいます。

DNA(Direct N ote Access)技術が用いられているので、
何と1つのオーディオ・イベントから和音の分析&編集も可能! 
サウンドも他のソフトに比べて自然です。

例えばノートを5度動かすと"キーン"という機械音が出てしまうソフトもあるのですが、
Melodyneに関してはリアルに音程が変化してくれます。

普段からピッチ補正は絶対に行う作業だけに、Melodyneが機能の一部になっているのはうれしい限り。音程のちょっとした補正から、新たにハモ・パートを作るというクリエイティブな用途まで、
幅広く使えるでしょう。


ミックス"ボタンを押せば、下部に各トラックのフェーダーが出現。フェーダー幅を狭めたり、
インサート/センド・スロットの表示/非表示も選べます。

スロットに挿したプラグインはドラッグによる順番入れ替えや他トラックへのコピーも簡単。
この辺で迷うことはまず無いでしょう。

内蔵プラグイン・エフェクトも一通りチェックしてみてください。

例えばPro EQは5バンドのEQで、カーブの背景にリアルタイムにスペクトラム・メーターが現れて非常に分かりやすい作り。コンプのCompressorもしっかりと音が前に出てきてレベルが稼ぎやすく好印象です。

さらに一番良かったのがAnalog Delayで、フィードバック音がにじんでいく感じが"あ~、分かっているな"という感想。この辺のEQ/コンプ/ディレイという基本プラグインが本当によくできていて感激です。

ミックスをしていて思ったのが、出音に余裕があるということ。

一般のDAWでは分離が良くても音をくっつけるのに苦労することがあるのですが、
Studio Oneは音がちゃんとくっつきますし、だからと言って飽和もしないので、
音数が多くても奇麗にサウンドの世界が見えるのです



ミックス時にプラグインだけでなく、手持ちのアウトボードをインサートしたいという人も多いと思います。

そんなときに便利なのがPipelineというプラグイン。

これを任意のトラックにインサートして、センドとリターンのI/Oポートを選んで再生してみましょう。
これだけで、自動的にPipelineがStudio Oneとアウトボード間のレイテンシーを算出&補正して、
ハードウェアのインサートを可能にしくれます。

ほかのDAWで同じことをやろうとすると、自分でレイテンシーを計って波形を前にズラすなどの面倒な設定が必要だったりするので、Pipelineは非常にインテリジェントな作りです。

今度はマスタリング用の新規プロジェクト・ファイルを立ち上げます。
そこへ2ミックスのオーディオ・ファイルを並べていきましょう。

ブラウズ・リストからオーディオ・ファイルを選んでドロップしてもいいですし、
さらにはブラウズ・リストに並ぶStudio Oneソング・ファイルをドロップすると、
リアルタイムにそのソングが2ミックスとして自動的に書き出されます!

 
プロジェクトに並べた2ミックスに対し、"プロジェクト">"音の大きさを検出"を実行すると、
その2ミックスのL/Rチャンネルのピーク・レベルや平均レベルが数値で確認できます。

書き忘れましたが、ソング画面でミックスを書き出す際に、
0dBを超えて赤が付いたりするとアラートが出て、さらにその回数まで教えてくれるようになっています。ソフト全体でレベル・キープに対する万全の対策が取られているわけです。

プロジェクトで2ミックスを再生すると、その状態がスペクトラム/レベル/位相メーターに映し出されます。2ミックスはボリュームやフェード編集のほか、インサート・エフェクトで音質を整えることが可能。

こうして2ミックスを並べていけばアルバム1枚分のマスタリングができます(もちろん1曲だけのマスタリングでもOK)。曲間の指定やトラック・マーカーの挿入も直感的に可能です。
書き出しもオーディオCDのほか、CDプレス工場に納品するためのDDP/ディスク・イメージ、
さらにインターネット公開用にメタ・データが埋め込まれたデジタル・リリース形態も選べ、SoundCloudへのアップロードにも公式対応しています。

もちろん64ビット・オーディオ・エンジンによる高品位サウンドはマスタリングでもしっかり堪能できます。



駆け足でStudio Oneを紹介しましたが、いかがでしたか? 
これ1本でハイファイなポップスからクラブ・ミュージックまで全ジャンルに対応し、
トラック制作からCDを焼く作業まで全部できてしまいます。

さらに付属プラグインもクオリティが高いので、
それだけでもStudio Oneを導入する意義はあると感じました。

乗り換え用途でなくても、新しいクリエイティブ・ツールとして手元に置いておくには価格的にも最適でしょう。そして、何より音が良い。セールス・トークではなく本当に良いのです。

最新のパソコン用にデザインされているので、ぜひハイパワーなマシンで使ってほしいですね。

僕の次のアルバムもStudio Oneで製作しています。