2014年6月22日日曜日

舞台「タンブリングFINAL」主演 演劇界に新風を巻き起こす松下優也ロングインタビュー記事

今回は、少し珍しい、R&B歌手の松下優也のYahooでのロングインタビューの前文を掲載します。
俺の家族の一押しの松下優也です。


R&Bシンガーとしてデビュー後、ミュージカル「黒執事」で注目を浴びた松下優也。最新舞台「タンブリングFINAL」では主演を務めるなど、24歳の今、演劇界に新風を巻き起こしている彼が、音楽への想い、そして演技開眼について語る。

サッカー少年から一転、歌手を目指す
――小学生の頃はサッカー少年だったそうですが、どういうきっかけで歌手を目指すことになったのでしょうか? 

僕、おばあちゃん子で、小さい頃からおばあちゃんが聴いている演歌など、歌を歌うことが好きだったんです。もちろん音楽の授業も好きでしたが、あの頃は歌手になろうとは思っていませんでしたね。その後、音楽そのものに興味を持ち始めたのは小6ぐらいのとき。それまでは世の中で流行っている、学校の友だちと同じような曲を聴いていましたが、自らの意志でダンス系や洋楽のCDを買ったり、借りたりするようになったんです。
――具体的には、どのようなアーティストを聴いていたのですか? 

日本でいうならDA PUMPさんだったり、w-inds.さんだったり、歌って踊るスタイルのアーティストさん。あと、Dragon Ash さんやRIP SLYMEさん、KICK THE CAN CREWといったヒップホップ系ですかね。でも、洋楽でいちばん聴いていたのはエミネムよりもエアロスミスなんですよ(笑)。そういったアーティストさんの曲を聴いているうちに、自分も歌手になりたいと思うようになったんです。
 
本場の音楽に触れるため、中3で単身NYへ
――それで、地元・大阪のボーカル&ダンススクールに入学されるわけですよね。

歌手を目指すにあたって、中学時代は部活に入らず、歌とダンスが習えるスクールに通い始めました。授業が終わるとスクールに直行し、レッスンを受けていました。グループを組んで、レッスンを受けたりしていたので、部活をやっている友達と何も変わりませんでしたよ。中3のときには完全に、将来は音楽でやっていこうと思っていましたね。だから、自分的には高校に進学する意味が分からなかったんです。同じ日々を繰り返すことに疑問を感じていたというか……。今となっては「今を生きる」ということは十分に理解できるんですけど、あの頃は将来のことというか、先のことばかり考えていたんですよね。

――それで、中3のときに単身でニューヨークに行かれるわけですが、なぜニューヨークだったんですか? 
とにかく本場の音楽に触れたかったんです。初めての海外で、自分の周りにいる人間がすべてアメリカ人というだけでも衝撃。今では考えられないようなカルチャーショックを受けましたね。15歳だったのでさすがにライブハウスには入れなかったんですが、ストリートミュージシャンや教会のゴスペルを見たりしました。あと、今は僕もミュージカルをやっていますが、あの頃はあまり興味がないながらも「プロデューサーズ」や「ヘアスプレー」といった話題のミュージカルは見てましたね。「ウィキッド」があまりに人気すぎてチケットが取れなかったり……(笑)。その後、毎年のように行われているので、あそこまでの衝撃はないかもしれませんけど、当時はすごかった。今でもいえることは、僕はあの街に流れている音楽、あの街でできた音楽が心底好きなんですよ。あと、親切で礼儀正しい日本人とは違った温かみを、あの街の人々には感じるんです。ちょっと関西人に似ているかもしれません。
 
R&Bシンガーと同時に役者デビューも
――帰国後、プロデューサーのJin Nakamura氏に見出され、デビューに向けて動き出しますよね?
 
帰国したときに、改めて自分が好きなものがハッキリしたんです。だから、結局高校には行きませんでした。僕の行動力だけでなく、親の協力だったり、中学からレッスンを受けているスクールの方の協力もあって、18歳のときにデビューすることが決まったんです。
――とはいえ、デビュー直後には映画『悲しいボーイフレンド』で役者としてもデビューされます。R&Bシンガーとしてデビューしながら、演技することに戸惑いはなかったのでしょうか? 
『悲しいボーイフレンド』はデビュー前にお話をいただいて、撮影したんです。そのときは、正直「え、演技?」と思いましたけれど、さすがにイヤと言えませんし、エンディングが自分の曲とはいえ、初めての演技が映画で、キスシーンまであって……(笑)。あの頃は「自分がこうありたい」という意志が先行し過ぎていて、他のものも試してみるという柔軟性みたいなものがなかったかもしれませんね。でも、そういう段階を重ねてきたからこそ、今の芝居好きな自分があるといえるんですよね。
 
キャリアの転機となったミュージカル「黒執事」
――それは当たり役となった「黒執事」で初挑戦したミュージカルにもいえることですよね?
 
そのときは、もちろん「え、ミュージカル?」でしたよ(笑)。ニューヨークで見た2本と「アニー」ぐらいしか見てなかったですし。しかも、まったくR&Bとは違う世界観じゃないですか!? さらに、大人気の原作ということもあり、ミュージカル化する際、決していい意見ばかりではなかったんですね。演じるのが、初ミュージカルの僕ですからね……。あの頃は、いろんなことに戸惑いながらも、目の前にあることをがむしゃらにやるしかなかった。でも、いざフタを開けてみると、いろいろ意見はありましたが、意外といい評価が多かったんです。そのことが自分を後押ししてくれたのは事実です。でも、初演の時点では芝居の楽しさにはまだ気付いていなかったですね。
――主人公のセバスチャンはこれまでに3度演じていますが、振り返ってみると「黒執事」とはどんな作品だといえますか? 
 
もはや、セバスチャン=俺って感じです。別に、ほかの人に演じてもらいたくないという意味じゃないですよ(笑)。明らかに自分を変えてくれた作品ですし、自分の芝居の根の部分を作ってくれた作品であり、役だと思うんです。悪魔で執事であるという、現実からかけ離れたファンタジーなキャラ設定のなか、自分の中でどうリアリティを出して埋めていくかみたいなことを考えることが楽しかった。3度目ともなると、セバスチャンを演じるというより、自分とセバスチャンが重なる瞬間をどこかで求めていたりしましたね。確実に自分のキャリアの転機になった作品だと思いますね。

 

2014年6月19日木曜日

Joe / Bridges (2014)

根強いファンベースを誇り、安定した活動を続けている人気R&Bシンガー
キダー・マッセンバーグのもとを離れ新たに新レーベルPlaid Take-Overを立ち上げリリースする

通算11枚目のスタジオ・アルバム
Joe 約1年振りの待望のNew Album Bridgesを紹介します。


前作 Doubleback Evolution Of R&Bで披露していた、アダルトな感じの曲を今回は、
SexyさとAdultの両面からのアプローチで大人のSexyなJoeを味わう事ができています。
 
俺の手元にある、音源は16曲です。2014年6月23日 発売予定になります。

今回のBridgesは収録曲が16曲と久し振りにボリューム感のある、Albumになっています。
どの曲も大変完成度が高く、何度でもリピートしても飽きのこないのが最大の長所です!!


先ず、オープニングの1曲目、Future Tellerで幕が上がります。
70's ライクな,R.Kellyが得意なステッパー的な雰囲気の曲に仕上がっています。
先ず、新しい感じのJoeの歌がSexyなダンサンブルな曲とマッチして最高のオープニング曲です。

2曲目のDilemmaですが、是は、現在のR&Bシーンのど真ん中を走る曲です。
思いキックにその上を這うように被さるシンセノ音が気もち良さを演出しています。

3曲目のDo a Little Dance も現行R&B系の曲ですが、最近のJoeらしい安定したミッド系ですね。

4曲目のIf You Lose Her は、完全に70's Sweet Soul Musicを再現した、俺には、堪らない、曲です。
なんとも、力強い、でも、優しい感じのJoeの歌い方が極上の1曲です。

5曲目のSex Ain't a Weaponですが、凄く変わった面白い感じの曲ですね。
なんとなく、アジアン的な楽器を使いながら、軽い感じのJoeの歌が雰囲気を出しています。

6曲目のLove & Sex Pt. 2 (feat. Kelly Rowland)ですが、Albumからのリードシングルになります。Destiny's ChildのKelly Rowland嬢をゲストに招いて、最高のミッドダンス系の曲にしあげています。只今、アダルト系のチャートで大ヒットしています。

7曲目は、Blame Her Broken Heart On Me 、正に、流石にJoeと唸る安定のミッド系の曲ですね。
前半、7曲も流石に安定した、曲が並び、後半への期待が膨らむと思います。

後半のスタートの8曲目はFirst Ladyですが、タイトルからもお分かりと思いますが、
完全に、女性賛歌ですね。70's的な、やはり、Sweet Soul Musicですね。

9曲目のTake It To Houseですが、完全に80's Black Contemporary Musicに仕上がっています。
Luther VandrossGlenn Jones的な曲の構成でスムースでダンサンブルな新しいJoeのスタイルがを披露してくれています。

10曲目は、Till the Rope Gives Wayですが、なんと、驚きの60's Soul Musicを再演しています。
Sam Cooke張りの伸びやかなJoeの歌唱が素晴らしい出来で、今回の白眉ですね。
俺は、この曲の暫く、ハマリ捲くりですね。マジで最高のSoul Musicです。

11曲目、Rest Will Follow も現行R&B曲ですが、Joeの歌唱スタイルが、70's的で、
古さと新しさを上手にミックスした、極上の1曲です。

12曲目は、この新作で、一番、DJ受けしそうな、Mary Jane [Remix]です。
相性が最も良い、Hip Hop界の大物 50 Centをゲストに迎えた,Funk系の曲です。
勿論、曲の方は、70's Funkの帝王の一人、Rick Jamesの代表曲をカバーしています。

13曲目、Bridgesはタイトル曲ですね。アコギの使い方が絶妙で、Joeらしい、ミッド系の1曲です。
この辺りの曲を歌わせたら。Joe以上の歌い手は居ないでしょうね。是非!! ライブで披露して欲しい曲のひとつですね。

14曲目、Love Sex Hollywood も完全に、80's Black Contemporary Musicに仕上がっています。
スラップベースを絶妙に使いながら、ファルセット気味で歌い上げる、Joeですが、
どことなく、Princeを思い浮かべてしまう、俺は大好きな感じの曲ですね。
たぶん、JoeもPrinceを意識して作った曲でしょうね。

15曲目、For Love は最近流行のEDM系のミッド曲になります。
ピアノを効果的に使い、キックは重めですが、上物が軽いので、聴きやすく、印象的な仕上がりですね。これは、完全に今までは、無かった、Joeのスタイルに驚きました。

そして、ラストを飾る、Love Undefeated 、16曲目ですが、完全にスロー系で終わると思っていたので、正直、面を食らいました、丸で、Michael Jacksonの俺には、最高傑作のAlbumのOff The Wallに収録されていても可笑しくない程のMichael的な曲です。
これは、最高の一言です。これ以上の言葉が無いほどの仕上がりで参りました。

全16曲を聴いた印象ですが、60年代から現行R&Bシーンを上手に橋渡しした、
なんとも、懐かしくもある全く、新しい、Joe Thomasの歌唱スタイルに完全に脱帽させられましたね。

特に、今作は、Black Musicの特徴のSexy & Danceを意識した、Black Contemporary Music作品集と思います。2009年発売の7枚目のSignatureから、The Good Bad Sexy
Doubleback Evolution Of R&BBlack Musicの本質を突いた、作品をリリースしてきた、
Joeの集大成的なBridgesを是非!!

購入して、聴いて下さい。必ず大満足すると、言い切れる、極上作品です。

2014年6月4日水曜日

松下優也 / Slow Dancin' (2014)

松下優也 通算14枚目のSingle! 2014年第2弾!!

今回もJapanese Dream Recordsから2014年4月25日発売。


Slow Dancin'をご紹介します。
 
またしても、残念ながら、配信限定Singleになりました。


前作、She's A Liarの流れを汲む、今回はSlow Jamの楽曲です。
今回も当然の様に、作詞は、松下優也が担当しています。
作曲は、KENGOが担当しています。前回、大活躍の米国の歌い手、B.Tompsonは不参加です。

曲の方は、寂しげな、それでも、美しい、エレピの音から始まります。
前回同様の米国産R&Bを意識した、ドラムパターンの打ち込みで、BPMは、抑え気味で、
Slow Jamに仕上がっていいるのが、印象に残りました。
 
曲の中盤から、ストリングスと、ギターの少しエッジの効いた、音が絡み合い、それと、
松下優也の書くもの凄く、切ないリリックが聴く者の気持ちを盛り上げていきます。
 
全体的に、エレピの使い方が上手で、ギター等のR&B楽曲には、それ程、必要の無い、
楽器も効かせながら、前作、She's A Liarとは全く違う印象の楽曲構成にしています。
 
今回も、松下優也自身の歌唱スキルは文句無く素晴らしいと思います。
噂では、夏に、新作のALBUMを出すらしいので、完全なR&B ALBUMを期待したいですね。
 
最後に、7月から、夏のLive Tourがスターとする様です。



松下優也Live Tour 2014-SUMMER-

7/3(木) 仙台 MACANA
7/4(金) 新宿 BLAZE
7/7(月) 岡山 IMAGE
7/8(火) 福岡 BEAT STATION
7/10(木) 梅田 AKASO
7/11(金) 名古屋 Electric Lady Land


2014年5月30日金曜日

50 Cent / Animal Ambition: An Untamed Desire To Win (2014)

50 Cent、注目の5年ぶりNew Shit!!
Animal Ambition: An Untamed Desire To Win

通算アルバム・セールス3000万枚以上
 
米Billboard誌が選ぶ「2000年代のアーティスト・ランキング」
 
Britney Spears、Jay Zを抑え6位に選ばれるなど、2003年のアルバム・デビューから大人気ラッパーとして活躍してきた50 Cent。所属レーベルとの対立により新作リリースが止まっていたが、
5年ぶりの新作『Animal Ambition: An Untamed Desire To Win』を6月にリリースが決定しました。


1. Hold On
2. Don't Worry 'Bout It (featuring Yo Gotti)
3. Animal Ambition
4. Pilot
5. Smoke (featuring Trey Songz)
6. Everytime I Come Around (featuring Kidd Kidd)
7. Irregular Heartbeat (featuring Jadakiss & Kidd Kidd)
8. Hustler
9. Twisted (featuring Mr. Probz)
10. Winners Circle (featuring Guordan Banks)
11. Chase the Paper (featuring Prodigy, Kidd Kidd & Styles P)


50 Centは、EminemのShady Records、Dr. DreのAftermath Entertainmentを通じて,
Interscope Recordsとデビュー時から契約していました。

2003年の1st 、Get Rich or Die Tryin’から今までのアルバム・セールス3000万枚以上を売り上げています。ここ数年はリリース方針などでInterscopeと対立してしまい、
2010年春から取りかかっていた新作は、何度も、延期やタイトル変更を繰り返してきました。

こうした状況に業を煮やしてか、今年に入り、50 CentがG-Unit Recordsと共にInterscopeを離脱。EminemのShady、Dr. DreのAftermathとの契約も円満に終了。

新たにCapitol Music Groupのインディ・レーベルCaroline Recordsと
ワールドワイド・ディストリビューション契約を結んだのです。

そして、いよいいよ、待望の新作発売になります。

俺の手元には、全11曲のプロモアドバンス盤があります。

全曲聴き終えた印象は、久し振りに、50 Centらしい、アルバムを聴けた事が、
一番、嬉しいですね。featuringゲストも、豪華ですし、何よりも、現行 Hip Hopのど真ん中を行く、
新しい、50 Centの印象が強く耳に残りました。
 
重たく、怪しい、曲もありますし、完全にR&Bな曲もあり、南部の香りが漂う曲もあります。
俺の個人的な感覚では、何度、聴いても飽きないアルバムだと思います。
 
1st アルバム以来の最高傑作になりましたね。間違いなく、今年の上半期のNo.1です。
是非!! 購入して聴いてみて下さい。絶対にマストな50 Cent New Album CDです!!
 
 
俺の最も大好きで、敬愛している、人気R&BシンガーのJoeが歌う“Big Rich Down”も発表されていいますが、こちらは、残念ですが、50 Centがエグゼクティヴ・プロデューサーを務める、
米国の新作、犯罪ドラマPowerのサウンドトラック盤だけに、収録される事になりました。
 
Animal Ambitionには未収録となります。
 
その気になる、犯罪ドラマのPowerですが、本国では、2014年6月7日より、オンエア予定です。
興味のある方は、是非、チェックして下さい。俺は、期待大です。

2014年5月29日木曜日

Donny Hathaway

俺の生涯で彼以上のシンガーは居ないと思います。
その彼とは、伝説のソウルシンガー Donny Hathawayです。


1945年10月1日イリノイ州シカゴ生まれ。
かなり幼い頃から聖歌隊で歌を唄っていました。楽器は主にピアノを学ぶ生活で、
高校を卒業後にハワード大学に進学しクラシック音楽を専攻していました。

ハワード大学卒業後はミュージシャンとして、あのCurtis Mayfieldの下で音楽を勉強してキャリアを積みました。 その後、1970年にアトランティック・レコードからデビューアルバムを発売して、1979年亡くなるまでに、Single 15枚 Album 6枚 没後に5枚を発売しています。

敬虔なクリスチャンの彼は、大学で音楽教育を受け、また白人アーティスト曲を自己流にカバーするというスタイルは従来の黒人アーティストにはない少し変わった存在でした。

それとは別に、黒人社会が抱える様々な問題にも踏み込んだ曲を発売して、
ニュー・ソウルと呼ばれる新世代の黒人アーティストとして脚光を浴びた下りました。

然し、衝撃の事態がおきます。1979年1月13日、ニューヨークのエセックス・ハウス・ホテル15階の窓から飛び降り、自殺。34歳の短い人生に彼が自ら幕を下ろしてしまうのです。

後の話によると、彼は相当に精神的にまいっていた様子で、いつ自殺してもおかしくない状態だった様ですね。

彼の生きてきた人生は、アメリカの黒人ピープルたちにとって重要な一時代とともにあり、
彼の死はその時代の終わりを告げる出来事でしたね。

60年代末にピークをむかえたアメリカの公民権運動。
人種差別の撤廃を求める黒人たちの運動は、
完全に泥沼化していった、ベトナム戦争に対する反戦運動の盛り上がりとともにアメリカ全土を巨大な混乱の渦に巻き込みました。

その後70年代に入っても、かつて多くの若者たちが目指した社会の根本的な変革は、
現実のものとはならず、キング牧師やケネディー大統領の暗殺が示すように、
時代はけっして明るい方向へは向かっていませんでした。

それでも黒人社会においては、ついこの間までは、
公然と行われていた公共の場所での差別、
電車やバスの座席、大学や高校への入学、職場での待遇などの差別は、少しずつ解消され、
黒人たちの社会進出は着実に進んではいました。

黒人たちにとっては、キング牧師が夢みた平等な社会が一歩づつ実現に向かっている希望に満ちた時代。それが60年代末から70年代前半にかけてだったと言えるのでは無いでしょうか。
黒人社会における中産階級の社会進出は、大きく前進しました。

低所得者層については、今までと状況に変化はなく、
中産階級の所得アップとアメリカ全土に広まりつつあった不況の波の影響で、
かえって不公平感が広まり始めていました。

早すぎた時代の変化の揺れ戻しが訪れようとしていたのです。
国民の意識改革よりも先に進んだ制度先行の平等政策、
その限界が、70年代半ばには明らかになってきたんですね。

その中にキラリと光る彗星のように彼が音楽業界に登場します。
彼は、そんな時代の流れを象徴する存在となるかのように、
1970年さっそうとソウル・シーンに登場した。

ゴスペル・シンガーを祖母にもち、名門のハワード大学でクラシックなど音楽を学び、
主席で卒業した黒人中産階級出のエリート。
彼は、牧師の道、音楽教師の道を選ぶこともできたが、
あえてミュージシャンになる道を選んだのですね。

彼の音楽の特徴は、それまでのソウル系ミュージシャンにはない音楽でしたね。
先ず、彼は音楽的な専門教育を受けていたせいか、
他人の曲を編曲し直し、自分独自の新しい曲に仕上げるのが得意でした。

その時彼が取り上げる曲の中に白人ロック系アーティストの曲が多いこともまた大きな特徴でしたよね。このあたりのセンスが、彼のサウンド・スタイルをニュー・ソウルと敬称される様になります。
その後のブラック・コンテンポラリーの先駆けであったと僕は思います。


ディスコグラフィです。
購入時の参考にして下さい。
先ず、数少ない彼のシングルレコードです。

The Ghetto-Pt. 1(1970)
You've Got a Friend (1971)
You've Lost That Lovin' Feelin (1971)
Giving Up (1972)
I Love You More Than You'll Ever Know (1972)
Little Ghetto Boy (1972)
This Christmas (1972)
Where Is The Love (1972)
Love, Love, Love (1973)
Come Little Children (1974)
The Closer I Get To You (1978)
You Were Meant For Me (1978)

次は、フルレンジアルバムレコードです。

Everything Is Everything (1970)
Donny Hathaway (1971)
Come Back Charleston Blue Original Motion Picture Soundtrack (1972)
Live (1972)
Roberta Flack & Donny Hathaway (1972)
Extension Of A Man (1973)

没後にリリースされたレコードです。

The Best Of Donny Hathaway (1978)
In Performance (1980)
Roberta Flack Featuring Donny Hathaway (1980)
A Donny Hathaway Collection (1990)
These Songs For You, Live! (2004)

最後に、彼は、ローリング・ストーン誌の選ぶ歴史上最も偉大な
100人のシンガーに於いて第49位です。

それと、1990年代以降、過去のブラック・ミュージックが再評価された中で、
最も「リスペクト」されたアーティストがDonny Hathawayと俺は思います。
それは、事実ですね

Satanism 悪魔崇拝主義

今回は、連続殺人鬼の犯人逮捕や紹介の時に度々、目にする、
Satanism
に付いて少し触れたいと、思います。
 
サタニズムとは、宗教的信条の一つの主義であります。

イデオロギー的、哲学的信条や社会的現象との関係を含みます、
悪魔主義、悪魔崇拝とも呼ばれています。


この、Satanism 悪魔崇拝主義には音楽の世界でもHeavy MetalやDeath Metal、Black Meatal等の
歌詞の中でも良く、出てくるフレーズと言葉です。

一般的にサタニズムといえば、「サタン(悪魔)」を崇拝し、悪の力をもって善なる力に打ち勝ち、
世界を支配することが想像されるが、最大のサタニズム組織である「悪魔教会 (Church of Satan)」は、この考え方を否定して下ります。悪魔教会は「サタン」が実際に存在するともしておらず、
単にある概念を物質的に代表する名称として「サタン」の名を捉えている。

サタニズムにも様々な形が存在するが、多くのサタニズムでは、
サタンとは次のいずれかに該当する。即ち、イデア・人間性のある一面、あらゆる存在の源・
あるいは宇宙を超越した何らかの力の人間界でのインターフェースであるとされて下ります。

サタンといえば、悪や理不尽な力を連想させる言葉ではあるが、
サタニズムは支持者にとってある少数派的な精神性と思想を示す言葉でもあります。

悪魔教会の創設者であるアントン・ラヴェイは、たとえそれがサタンという名の神であっても、
あらゆる神を信仰しない。同様に、悪魔の掟に従うこともない(このことは、有神論のサタニズム信仰者も存在することから、サタニズムが自己矛盾した存在であると誤解されがちである)。

よって神に仕え、天の御命に従うような(欧米では一般的な)考え方も存在せず、
サタニズムにおいては自身の物質的・身体的な発展と解決が殊更に重視されるのです。

このような理由から、サタニズム信仰者は伝統的な宗教の信仰を疎んじ(キリスト教やユダヤ教。欧米では何らかの伝統的な宗教を信仰することが当然とされる)、自己中心的な世界観を構築し、エゴイスティックであることを好むと捉えられて下ります。

それでは、Satanism 悪魔崇拝主義の根本的な宗教的思考をお話しましょう。
僕たちがよく目にするものに〝星〟のマークがありますよね。

日本で陰陽師が星を使っているように、海外でも星が魔術に使われていることをご存知でしょうか?そもそも五芒星と呼ばれる星形は古代イスラエルの王、ヘロデ大王の紋章だったらしく、
それがユダヤを象徴するマークになり、時が経つにつれ色々な形で広まっていったそうです。

現在では「ダビデの星」といえば「六芒星」ですが、「逆五芒星」でダビデの星を表すという
説もあります。正五芒星」は天とのつながりを示し、逆五芒星は地の底(地獄)との
つながりを示すと言われているのです。


この逆五芒星は、地とつながることで悪魔を降臨させ魔の力を得ることができるといいます。
だから悪魔崇拝者は、逆五芒星をシンボルマークにして崇拝しているのです。

さらに、逆五芒星は悪魔(バフォメット)と組み合わされます。
バフォメットは別名で「悪魔の山羊」の事です。


黒魔術師として有名な「アレイスター・クローリー」は、自らバフォメットと名乗っていました。
現在ではバフォメットが悪魔崇拝の象徴として広く使われています。

そんな悪魔崇拝のシンボルとされている逆五芒星が、米大統領官邸ホワイトハウスに描かれています。上から見ると見事な逆五芒星で、しかもホワイトハウスは地獄を指す位置にあるのです。
上から見たら梟(フクロウ)が描かれている米国会議事堂も、このすぐ近くにあります。


ホワイトハウスを上から見ると五芒星になります。
悪魔崇拝者が使う人差指と小指で角を作るサインがありますが、これは崇拝者間での
認識サインで、この形を作って人を指すと呪いをかけるという意味になるそうです。

俺達も、知らず知らずに良くこの、手のサインをしていますよね。

このサインの歴史は以外に浅く、1960年代に米国悪魔教会の創始者「アントン・ラヴェイ」が、
イタリアにあった魔除けのジェスチャーを、サタンの儀式の中に取り入れたことで広まったといわれています。また、1970年代~1980年代に活躍したハードロックのヴォーカリスト「ロニー・ジェイムス・ディオ」が、ステージで、このジェスチャーをやり続けたことでヘビーメタル、
ハードロックのミュージシャンの間でも広まったようです。

そうです、日常の様々な場面で、僕達も悪魔崇拝のサイン等を見たりしています。
それでは、最後は、20世紀に実在した、悪魔崇拝者のアントン・サンダー・ラヴェイを紹介します。

アントン・サンダー・ラヴェイは1932年にシカゴで生まれました。
彼は、早くからショービジネスの業界に触れ、そうした方面への才能を開花させていた。
高校生のときにサーカス団に入り、猛獣の調教師となった。

そして18歳にはカーニバル業界に入り、読心術を学んだ。彼がオカルトや催眠術に触れたのは、
この頃らしい。そして、蒸気オルガン引き、占い師、殺人現場専門の警察のカメラマンを経ながら、
20世紀の悪魔崇拝の大家としての道を進んで言った。


彼が独自の悪魔崇拝の哲学を構築し活動をはじめるのは、1950年代の頃かららしい。
最初にはっきりさせておくが、彼の崇拝する悪魔とは、世間一般で考えられている悪魔とは、
だいぶ異なる。彼の考えるサタンとは、神に謀反を起こして天から堕とされ、
セコい復讐にもえるようなケチな存在ではない。

キリスト教の神話に登場するような悪魔ではない。言ってみれば、キリスト教の神話に登場する悪魔など、教会が布教宣伝のために作り出した道化でしかない。
「みなさん、恐ろしい悪魔から身を守るためにもキリスト教を信じましょう。」「キリスト教の敵は、邪悪な悪魔にあやつられているのです。」

こんなものを信じてみたところで、釈迦の掌の上で大立ちまわりを演じている猿と同じだろう、
ということだ。彼の考える「悪魔」は、そんな存在ではない。では、それは何か?

彼は言う。人間には、新しい神が必用である。それは、教会にあるような無味乾燥な、奴隷が主人に対するような崇拝を要求する神ではない。人間とは切り離すことのできない存在、「神性」を有しながら人間の痛みを知り、人間と共に欲望や苦しみを分かち合い、
それでいて人間よりも叡智を持ち強い力を持った神。

歴史を振り返ると、科学や哲学の進歩をもたらして来た者達は、既存の権威に反逆して来た者たちではないのか? 教会や権力や一般社会に反逆した者たちではないのか?人間の心の中には秘められた自由奔放な欲望や強いパワーがある。

これを解放す者は、高みから人間を見下ろし家畜や奴隷のように人間を扱う者では断じてない。強い反逆心を持つ人類の同胞でなければならない。

では、そうした新しい神とは何ぞや?
「創世記」の時代から、畏怖の念を持って語られてきた謀反と激情の神。人類を誘惑し(=人類に快楽を教えてこれを推奨し)、神の秘密を人間に暴露して迷妄から解放してくれる存在。

そう、サタンと呼ばれるものではないのか?サタンは、人間に罪を犯して悪に服従するようなことは要求しない。彼の目的とは、神やキリストとは異なる方法での人類の救済である。

彼は、人間に自由奔放に生きることを薦め、それによってこそ真の人間理解を得ることができる、という。ラヴェイは、いわゆる「霊的」なものには、強い不信感を持っている。

彼は、儀式魔術なども「神秘めかしたたわごと」、「信心ぶったまやかし」と切って捨てる。
では、なぜ彼の教団では、黒ミサや黒魔術の呪術を行うのか?「人間には幻想が必要だからである。」それで、かのクトゥルー神話の邪神への祈り、などというものも出てくるわけである。

彼はある意味、宗教の効能を認め、それを積極的に活用する唯物論者と言うべき側面も持っているように思える。

彼の哲学は、単純な快楽主義ではない。
彼の思想は1969年に出された「悪魔聖書」に集約される。

悪魔崇拝とは宗教というより、人種学である。それはキリスト教とは正反対のものである。

すなわち、その実体は「合理主義」と「自己保存主義」であり、本来は世俗的で健全な思想である。

単にそれを「宗教」というオブラートで包んでみたものにすぎない。この健全な思想が、危険視されるのは、むしろ世間を支配しているキリスト教に代表される思想が、不健全なためである。
彼の「悪魔聖書」には、9つの声明文がある。

これを読めば、彼の大まかな価値観が理解できるのではあるまいか?


1.悪魔は節制ではなく放逸を好む。

2.悪魔は幻想ではなく実存である。

3.悪魔は偽善に満ちた自己欺瞞ではなく、優れた叡智である。

4.悪魔は敵を愛するような不合理なことをして愛を浪費しない。
  愛するに値する者のみに恩恵をもたらす。

5.悪魔は「右の頬をうたれたなら左の頬も向けよ」などと不合理な要求はしない。
  復讐を要求する。

6.悪魔は責任を負うべきものに対して責任を持つ。

7.悪魔は野獣のごとき人間である。それは、現実にいる動物よりも賢く、時には凶暴になる。
  高度に発達した精神と知性のために、恐ろしい獣となる。

8.悪魔は、いわゆる「罪」といわれるものを認める。なぜなら、それらの多くは肉体的・
  精神的な欲求を満たしてくれるものだからである。

9.悪魔はキリスト教においてさえ、人類の親友であった。
  彼は太古の昔から、ずっとそうであった

また、これに対して、ラヴェイは悪魔崇拝者が避けるべき「罪」についても言及する。


これも9つあり、愚鈍、知ったかぶり、唯我主義、自己欺瞞、集団への同調、見通しの欠如、過去の権威の忘却、非生産的な自尊心、美意識の欠如である、という。

彼の理想は、まずは快楽の肯定である。快楽主義は、どこも悪くない。欲望を無理に押え付ける節制は自然に反した不合理で偽善的な行為である。そして、平等主義のような欺瞞は捨てる。

人間を区別し、階層化させる。しかし、その方法はファシズム的な方法では成功しない。

あらゆる義務を放棄し、自由な共同体を作ることによって(例えば一夫多妻制を設けるなど)、
それは成される。そして、弱肉強食のジャングルの掟に従った社会を作る。
これによって、人間は解放され、進歩する。

こうした考え方に基き、かれは11から成る悪魔崇拝者が守るべき道徳を挙げる。
だいたい、こんな感じである。

.人から求められない限り、自分の意見を口にするな。

2.聞きたがる人以外には、自分の悩みについて話すな。

3.郷に入らば、郷に従え。さもなくば、その郷から出てゆけ。

4.あなたの郷に入って来たのに、あなたに敬意を示さない客は、遠慮なくぶちのめせ。

5.相手の同意の無いセックスをしてはいけない。

6.自分の物でもない物を奪ってはいけない。さもないと、奪われた人は悲鳴をあげ、
  助けを求める(そして、結果的にあなたが損をすることになる)。

7.呪術を行って効果があったら、素直にそれを信じること(それが科学的かどうかなど、
  どうでもよろしい、人間には幻想が必要なのだ)。

8.自分の利益と関係ないものに、文句をつけるな。

9.小さな子供を傷つけてはいけない。

10.人間以外の動物を傷つけてはいけない。ただし、食用にしたり、
   自分の身を守る等、必用な場合は許される。

11.公共の場で他人に迷惑をかけてはならない。
   また、迷惑を受けたら注意せよ、聞かないようなら、ぶちのめせ。

要するにこれは、秩序だった合理的な利己主義、快楽主義とも言える。

また、彼は「子供を傷つけるな」、「人間以外の動物を傷つけるな」とし、かの有名な「悪魔崇拝者は子供をさらって生け贄にしている」といった都市伝説や悪意に満ちた噂への対抗も忘れない。

こうなると、当然の疑問も浮かんでくる。こうした哲学を実践するのに、なんでわざわざ「悪魔」を引き合いに出すのか。もうちょっと、上品で刺戟の少ない言葉を選べば良いのではないのか?
彼は答える。

「悪魔」という名前を使えば精神が高揚する、精神が高揚すれば意欲がわき、自己鍛錬もやりやすくなる。それは、様々な目的を達成するに足る強力な言葉である。もっと簡単に言えば、
面白くて発展性があり、そのものずばりの名前だから、我々は「悪魔」という言葉を使うのだ。

 
ラヴェイは、ショービジネスの世界に身を置いただけあって、ある種の言葉なりシンボルが、
人間の心に揺さぶりをかけ、あるいは魅了し、イデオロギーの原動力となることを知っていたのではあるまいか。「悪魔」という、このインパクトのある、様々な意味や、
人間の心に大きな影響をあたえ得る言葉を使ったからこそ、
彼の哲学が成功したとも言えるのかもしれない。

彼が、こうした思想を持つに至る一つのきっかけは、警察のカメラマンとして殺人や自殺の現場、そして遺族達の姿を見たことがきっかけだったという。

遺族達は、涙を流しながらも「これも神の御心です」という。ラヴェイには、それが理解できなかった。こんな惨いことをしておいて、何が神か? 
どうして、遺族が、そんな神に感謝しなければならないのか?

彼は1950年代には、既に悪魔主義の思想を構築しつつあった。
彼はアレイスター・クロウリーにも強い共感を示し、OTO系の魔術結社に接近したこともあったが、「神との合一」を目指す彼らとは、考え方が合わなかったらしい。

彼はこのころ、オカルトに興味を示す。超常現象に興味をもち、ポルターガイストの調査なども行った。しかし、かれはここで超常現象というものは、ほとんどが誤認に基づくものだということを思い知らされる。ポルターガイストの正体は、天井裏で風に吹かれるブリキ缶だったりした。

しかし、同時にラヴェイは、人はそんな客観的真実よりも、もっと別の物を求めていることに気づく。
幽霊の正体は枯れ尾花だった、と説明するとかえって人は落胆するのだ。

そこで、彼は、自分にポルターガイストの調査を依頼してきた人々を落胆させないために、
「大丈夫、悪魔払をしておきましたから。」と答えるようにした。人間には幻想が必要なのだ。
こうして彼は、一種の魔術師として有名になる。1955年には警察を退職し、オルガン奏者をしながら、悪魔払いや呪術や占いを請け負う魔術師として活動した。

それから彼はオルガン奏者を続けながら、魔術を行い、離婚と結婚、子供の誕生を経験し、充実した毎日を過ごす。1965年には、ライオンを飼って調教し、慈善事業にも熱中した。
彼は1966年に剃髪し、この年をサタン紀元とした。こうして彼の「サタン教会」は、創立された。

彼は「黒い法王」を名乗り、自分の思想の布教を開始した。1967年には、弟子達のために、悪魔崇拝者風の結婚式を行い、マスコミの注目を集める。彼はマスコミを大いに利用した。キリスト教に対する冒涜的なパフォーマンスの黒ミサを行い、
自分の愛娘への悪魔崇拝式の洗礼式なども公開した。

おりから、当時のアメリカには、ポップカルチャーとしてのオカルトが大流行していた時期でもある。彼のこうしたパフォーマンスは、大いに受けた。そして、多くの芸能人を中心とした著名人達も、彼の思想に共感したり、あるいは単に面白がったりして、彼のサタン教会に入信した。
また、ラヴェイと友人関係を結んだ。

彼はホラー映画「ローズマリーの赤ちゃん」に悪魔役で出演したり、イーグルスのホテル・カリフォルニアのレコード・ジャケット写真に登場するなど、メディアを利用した。ショービジネスの経験のある彼らしい布教方法であろう。そして、1969年には、彼の哲学思想をまとめた、サタン教会の聖典、「悪魔聖書」を書き上げる。

他にも「悪魔儀式」や「魔女の書」などの著書もある。

1960年代の風潮は、彼に対しては、おおむね好意的であった。
そして、夥しい数の「サタン教会」の分派が現れ、60~70年代のオカルト・ブームの一翼すら担ったのでる。しかし、この流行は、必ずしも彼の望んでいたものではなかった。

不良少年達のファッションに利用されるだけならまだしも、哲学も思想も無い自堕落なだけの犯罪者たちが悪魔主義を標榜する。かのマンソンの事件のとばっちりも、彼のところへ来た。
さらに、根も葉もない悪意に満ちたデマも彼を攻撃した。

80年代を過ぎてアメリカが保守傾向になってゆくと、マスコミも彼を攻撃するようになった。
彼はサタン教会の規模を縮小させた。

こうして彼は、自分の哲学への誤解を解こうと尽力しながらも1997年に死亡しています。
 






2014年5月25日日曜日

POGO THE CLOWN

Serial killer連続殺人犯のコーナーです。
第6回目の今回は、死して尚、人気を博す、ジョン・ウェイン・ゲイシーをご紹介します。
 
POGO THE CLOWN

先ず、ジョン・ウェイン・ゲイシーとは世界的に有名で知名度もバッグンですが、
学者や芸能人では無いです。

Serial killer連続殺人犯です。それでは、何故?彼が現在も崇拝されているのでしょう?
その事に関して今回は紐解きたく思います。


ジョン・ウェイン・ゲイシー (John Wayne Gacy)は1942年3月17日イリノイ州シカゴのポーランド系移民の家庭に生まれます。父親である叩き上げの熟練機械工、ジョン・スタンリー・ゲイシーは貧しさの中で育ち、人には負けない、弱みを見せてはならないという人生哲学を持っていました。

彼には、脳内の手術が不可能な部位に腫瘍があり、発作的な癇癪を起こすなどその情緒は極めて不安定で、やり場の無い怒りが突如湧き上がることもあり、しばしば自分の家族に矛先を向けていたと伝えられて下ります。はじめての一人息子(ジョン・ウェイン・ゲイシー)に期待を込めて、
西部劇で人気を博したアメリカ男性を象徴する名優ジョン・ウェインの名を授けたが、
生まれたばかりの息子に心臓疾患があると判明した途端に失望して見限ってしまいました。

これが、ジョン・ウェイン・ゲイシーには悲惨で過酷な運命の始まりです。
父スタンリーに対するジョンの幼い頃の記憶は躾や礼儀作法に厳しく、小さな失敗をしても革砥で打擲されるというものが多く、スタンリーから徹底的な虐待を受けていました。

スタンリーは身体の弱い息子をことあるごとに「クズ」「間抜け」「オカマ」「お前はホモになるのさ」となどと常に責め立て、肉体と精神の両面で痛めつけました。

このためにジョンはパニック障害や心臓発作を頻繁に起こすが、
彼は罵倒されるのが嫌でストレスや体の不調を我慢して必ず失神し、
そのたびにスタンリーは息子を激しく罵ったらしいです。
失神の直接の原因は病院では分かりませんが、ジョンを診察した医師は
「再発性の失神症」と診断して下ります。

母が夫に対し息子の体をいたわって欲しいと懇願すると、スタンリーは「あのガキは親の気を惹いてやがる」と鼻で笑ったらしいです。相当に、酷い親父ですよね。
その後のジョンは14歳から18歳までの間、1年以上の入院治療と、
高校を4つ変わったことで普通高校を落第となります。

その後職業訓練校に編入し優秀な成績を上げたことで、怠学補導教官の助手として事務室で働くように勧められています。この頃のジョンは、父スタンリーの気を惹くように、スタンリーお気に入りの民主党立候補議員の応援をする様になります。だけど、兵役審査で病歴があったことで免除になると父は息子を再び罵倒するようになっていきます。

ジョンが18歳の時、当時の女友達と性交に及ぼうとするも意識を無くしたらしいです。
それを知ったスタンリーは、「お前の中のオカマが登場した」と罵倒をしました。

最終的には家を追い出されたが、それでもジョンは自身を罵倒し続けた父親を心から愛しており、いつか父親に認めてもらおうと一生懸命に働き続けました。
弱小時代の彼は健気で真面目な印象ですよね。

その彼が、何故?Serial killer連続殺人犯に変貌を遂げたのか?
1962年、ゲイシーは父の車を貸してもらおうとして口論となり、「タイヤの空気を入れてくる」と言い残しラスベガスへ家出し、母が引き取りに来るまでの3ヶ月間葬儀屋のアルバイトを勤めた。

昼間はここで死体に防腐処置を施すための血抜きを手伝い、夜は死体を安置している処置室の隣に置いてある簡易ベッドで寝起きしていました。後に「その頃のゲイシーは若者の死体を見ると胸が疼き、それも少年の死体だと、異様な感覚に支配され、仕事に慣れてくると、自分の気に入った少年の死体が入った棺の中に潜り込み、死体の皮膚に身を寄せていた」という話がマスコミによって作り上げられるが、ゲイシー自身はこれを否定しています。

ゲイシー本人によると、死体置場には住んでいたが、死体と一緒に寝ていたことや
死体と性交していたというのは大嘘であり「馬鹿馬鹿しい」と一蹴しています。

その後シカゴへ帰郷したゲイシーは、ビジネスの専門学校へ進んだ。
卒業後は大手靴販売店のセールスマンとして就職。

入社して間もなく抜群の営業成績を上げたことで、若くしてエリアマネージャーに抜擢されました。
ここまでの彼は出世していますよね。然し、徐々に変わりだしていきます。

ゲイシーは青年会議所(United States Junior Chamber)の有力会員でもあり、会議所の貯蓄販売券の販売でも優秀な成績を残し、その2年後には州全体で3番目の活動実績を挙げたとして第一部長に就任している。1964年にはマリリンという女性と結婚してアイオワ州に移った。
そこで妻の父親が所有していたケンタッキーフライドチキンの3店舗のマネージャーを兼任するようになり、ビジネスに地域活動に八面六臂の活躍をし、
人望も厚かったゲイシーは青年会議所の次期会長選出が確実視されて下りました。

ビジネスマンとして多忙を極める中にあっても1年間で青年会議所の多数のプロジェクトを立案・実行にあたる。また、地元でのボランティア活動にも積極的に加わり、常に精力的に動き回るゲイシーをいつしか周囲は「眠らない男ゲイシー」と畏敬の念をこめて呼び、
会頭候補にまで登り詰めた。これほど働いたのは、父スタンリーに自分を認めてもらいたいという彼なりの愛情でもあったと思います。

しかし1968年に少年への性的虐待の罪で服役することになる。
その間にマリリンが離婚を提訴し、受理されたことで結婚生活は終わりを迎えます。

ゲイシーは結婚する少し前、一緒に酒を飲みに行った男と無意識のうちにオーラルセックスに耽ったと言われて下ります。ゲイシーは、父スタンリーから言われ続けてきたことが現実のものとなったことに深い恐怖と嫌悪を抱いたらしいです。
その3年後、青年会議所会員の息子で15歳になるドナルド・ヴァリューズを「ポルノ映画を観よう」と誘って、地下室で関係を持つ。事が済んでからゲイシーはヴァリューズに金を払ったが、
その後もヴァリューズはゲイシーのもとをしばしば訪れ、
何かと理由をつけては金を要求するようになった。
ゲイシーはそのたびに金を支払い、性交した。

そして、会頭選挙を目前に控えたゲイシーが反自然性交の容疑で逮捕されたのは、
このヴァリューズが訴えたためであります。

実刑判決を受けて収監されるが、わずか7ヶ月で高校卒業の資格を取り、
さらに大学の通信教育で心理学などの単位を取得する。

また刑務所内の青年会議所の法律相談員として、待遇の改善に関する、
2つの法案を州議会に通した。
模範囚としてその態度を買われたゲイシーは懲役10年の判決にもかかわらず、
わずか16ヶ月で出所となり、イリノイ州に戻った。

だが、服役中の1969年、父スタンリーが肝硬変で死去し目標を失ったのが、
連続殺人を犯すストレス要因になります。


いよいいよ、Serial killer連続殺人犯のPOGO THE CLOWN誕生の瞬間が訪れます。
釈放から半年後、ゲイシーは少年に対する暴行容疑で再逮捕されます。

しかし、原告が裁判に姿を見せなかったことで不起訴となります。
その秋より、ゲイシーはパーティーで知り合った少年をあさるようになっていきます。
その翌年の1月のある夜、自分の「拾った」青年とベッドをともにする。早朝に目を覚ますと、
その青年がナイフを持って立っているのを見てパニックを起こし、格闘の末刺し殺してしまった。

青年はゲイシーのためにサンドイッチを調理しており、彼はナイフを持ったままゲイシーを起こそうとしたのだった。これに大きく混乱したゲイシーは死体を床下に隠して下ります。
これ以降、殺人が習慣となっていきます。殺人に魅力を感じていく様子が伺えますね。

軽食堂のコックをしながら、室内装飾や増改築などを専門とする軽建築業で身を起こすことを決意したゲイシーは貯金に励みながら事業計画を練り上げ、1971年にシカゴのノーウッド・パークの近くに家を購入。そこを拠点に、満を持して自分の建築ビジネスを興した。
持ち前の勤勉さで会社を軌道に乗せると、高校時代から知っているキャロルという女性と結婚、
彼女の連れ子二人も共に暮らし地域でも尊敬される存在となっていった。

休みには道化師「ポゴ」に扮し、福祉施設を訪れるなどして子供たちの人気者となる。
さらに地元民主党のメンバーとなり、パーティー会場で時の大統領ジミー・カーターの
妻と握手している写真が残されています。


この件について、性犯罪者であった人物と会わせてしまったとしてシークレットサービスの調査能力の無さが非難されました。

ゲイシー本人によると、彼の意識障害はある種の健忘を伴って現れるようになり、
道化師ポゴを始めたのはポゴに変身しているときは安らぎを得る、
ことができたからと言って下ります。

ゲイシーは少年たちを家に誘って強姦した後に殺害した。
被害者を誘う手口は「ポルノを観ないか」と誘って地下室に連れ込み、
手錠を掛けて動きを封じ凶器で脅しながら性交し、
その後首を絞めて殺害するというものであった。

死体は床下に埋葬しその上に石灰を撒く。時には塩酸をかけることもあった。
1975年の末にキャロルと離婚。その後、ゲイシーの犠牲者は一気に増えていきます。

まるで映画の様な話ですが全て事実です。
弱小時代の精神的な虐待が人間を破壊して壊滅に追い込まれるのが伝わると思います。
1978年、ゲイシーの会社のアルバイトの面接へ行ったまま行方不明になった15歳の少年、
ロバート・ピーストの行方を追っていたデス・プレーンズ警察の警部補ジョゼフ・コゼクサックが
ゲイシーの家を訪ねた際に様々な遺留品があることに気づいた。

遺留品の他に『偉大なフェラチオ』『アナルセックス』などのゲイポルノや、使用した痕跡が残った肛門用バイブレーターも発見したが、それ以上に彼を圧倒させたのは家全体を覆う異様な臭気だった。コゼクサックはゲイシーがただの実業家ではないことを悟った。

事実、ゲイシーは以前から警察による厳しい追及を受けていたが、時には地元の有力な民主党員であることを笠に着て、逆に警察の24時間による監視捜査を「人権侵害」だとして民事訴訟を起こすなど、のらりくらりとかわし続けました。この辺りは、流石に知能犯的な行動ですよね。

その頃のゲイシーは一方通行の道を逆走するなど、異様な行動が目立っていたのだが、
ゲイシーを監視するチームの責任者、ウォーリー・ラング部長刑事はそういった微罪ではなく、

より大きな罪で逮捕しようと決めた。

やがてガソリンスタンドでゲイシーが顔馴染みの従業員にマリファナを渡していたことを、
部下の聞き込みで知ると、ゲイシーを麻薬不法所持の現行犯で逮捕することにした。

これによりコゼクサックは家宅捜索令状を手に入れ、ゲイシーの自宅に入りました。
自供を受けてゲイシー宅の強制捜査が行われた結果、29人は石灰で覆われた、
家の床下から発見されました。

死体は床下できちんと整頓されたように埋められていた。
他の4人は床下にスペースがなかったので近くのデス・プレーンズ川に、
捨てたことが明らかになった。ロバート・ピーストの遺体もそこから引き揚げられた。

被害者の多くは男娼であり、数人は彼の会社でアルバイトをした10代の青年、最も若かった犠牲者は9歳で、20歳の元海兵隊員の青年が一番年齢の高い犠牲者であった。

状態が悪かったために身元がわからない遺体も9体あったのは事実の話ですよ。
床下に埋められた死体は全てが腐敗しきっており、
発生していたメタンガスに現場の警官たちは激しい目眩と吐き気を覚えた。

余りに腐臭が凄まじく、一度臭気に触れた衣服は臭気が染みついて洗浄不能になったうえに衛生面でも危険とされたため着用不可能となり焼却処分された。

さらに、土中に埋められていた死体が空気に触れたことで再び腐り始めた。
衛生局の分析で命に関わる危険な物質が大量に発見され、
さらには毒性の強い細菌が検出された。このため郡は現場の捜査員たちに、
作業用に使い捨てのジャンプスーツを支給し、傷の自己申告を徹底させ傷を申告をした捜査官を現場から外し、全員に髭を剃ることを禁止した。

警察署の死体保管所はガス室と化していました。
この死体の捜索と分析は強烈な悪臭と病気の感染との戦いとなり、命を落としかねない危険を伴ったと言われて下ります。その後、ゲイシーは精神鑑定のため、シカゴのセルマック精神病院の犯罪精神科病棟に移送されました。そして「私の中には4人のジャックがいます。

全員のことを詳しくは知りません。家であったことはすべて4人目のジャック"ジャック・ハンリー”が行ったことなのです」と証言しました。

ゲイシーによれば、彼の中の4人のジャックがゲイシーの肉体をコントロールし、その間の記憶は全く無いのだという。1人目のジャックは、酒と麻薬をやってから少年を漁りに出かけ、少年を車に連れ込んでセックスをする。そうした中で2人目のジャックが現れ、
行為が終わると裸のまま車外に放り出し、そのまま逃亡しては楽しむという。
俺は殺人課のベテラン刑事であるとゲイシーに語っていたという。

2人目のジャックが引っ掛けた少年を、自宅まで無事に届けるのがこの3人目のジャックで、
心優しい警察官であるという。そして、3番目のジャックが少年を諭しているときに突然現れて、
手の届かないところへ少年を連れ去っていくのが4人目のジャックであると自供しています。

ゲイシーは、多重人格症として診断されることに全力を尽くしました。
1980年2月6日から始まった公判で、ゲイシーは自分が多重人格であることを主張し続け、
無罪を訴えた。だが陪審は訴えを退け有罪評決を下した。

33人の若い男性を殺害した理由に多重人格を持ち出しても「詐病」であるとされた。
1980年に12回の死刑判決と21回の終身刑判決を受けたが、数百万ドルに及ぶ莫大な資産を利用して、20回以上の上訴と模範的な服役生活により刑を免れ続けてきた。

また自分を妬む人や警察の陰謀であるとして冤罪を主張し、死刑制度の違憲性を訴えて上告を繰り返した。これにアメリカ国内で非難が集中し、いち早い死刑執行を願う人たちがデモ活動を行った事もあると言われて下ります。

ちなみにゲイシーの証言を得たのは1978年9月27日。
コロンバス・シティズン=ジャーナルが、ビリー・ミリガンの事件について、ミリガンが10の人格を備えていることを一面トップの記事にした3ヵ月後の事であります。

ゲイシーを心理学的に鑑定した臨床医は、彼のIQはかなり高く、神経学テストを初めとする7種類のテストでも、脳障害の兆候は見られなかったと診断する一方でロールシャッハテストや主題統覚検査では異常を感じさせる反応を示し、心理面の安定をみるミネソタ多面人格目録(MMPI)でゲイシーが極めて異常であり、思考の混乱から精神分裂かもしくは妄想症の可能性が強い、
とされ、この検査結果では、ゲイシーは「自分を有利にしようと動いている訳ではない」ということが認定された。

元スタンフォード大学行動科学課長及び研究センター会長ローレンス・フリードマンは、ゲイシーを極めて凶暴で歪んだ性欲に巻き込む人格相として存在しているとした。

ゲイシーのトラウマをアルコールに耽っていた父親と現在までに及ぶ本人自身の発作によるものと指摘、幼い頃から彼を責め苛み続けた心身症と神経症が彼の犯罪性を作り上げる土壌となったと証言した。だが「このような症例を罰するか罰しないかの判断は、
法と社会の境界上の問題であり、心理学の立場からは言及できません」とも話した。

ゲイシーの異常さは学問的に証明はできても、それが33人の人間を殺害する確たる理由にはならないとしたのであります。


そんな中、自分に興味を持ち手紙を送ってきた、ジェイソン・モスという当時18歳の少年と文通を始める。ゲイシーは後に彼の電話番号を突き止め、電話でのやりとりを行うようになった。

その後、少年に「人殺しをした本当の理由を教えてあげる」と刑務所に招待し面会することになった。しかし情欲を抑えきれなくなったゲイシーは、彼を34人目の被害者にしようと企む。

模範囚としての信用を利用して看守抜きでの面会(本来は規則違反)を取り付け、
少年と2人きりでの面会が叶い彼を監視カメラの死角に誘い出して犯行に及ぶも、
間一髪で看守が通りかかったことで未遂に終わった。この犯行が決定的となり、
再審請求は取り下げられました。
一度、連続殺人犯に変貌を遂げると、殺人の欲求に歯止めが利かないのでしょうね。

これが、彼の最後に繋がっていきます。いよいよ、POGO THE CLOWNの最後の瞬間です。
1994年5月10日深夜、薬物注射による死刑がジョリエット刑務所にて執行された(この一件は日本のテレビ番組で幾度か取り上げられ放送されている)。彼が希望した最後の食事は、
ケンタッキーフライドチキン、フライドポテト、エビフライ、イチゴ、ダイエットコークなど、
若き日の成功を象徴するものばかりであった。通常、薬物注射による死刑は、
平均で7分前後で静かに絶命すると言われているが、何らかの手違いか薬効にムラが生じ、
ゲイシーは20分近く苦しんで絶命したという。

この件についてコメントを求められた担当検事のウィリアム・カンクルは「被害者が受けた苦痛に比べれば、ゲイシーの苦痛など大したことはないね」と述べたらしいです。


以上が、POGO THE CLOWN ジョン・ウェイン・ゲイシー (John Wayne Gacy)の真実の物語です。

最後に、POGO THE CLOWN とは、子供たちを楽しませるため、パーティなどでピエロに、
扮することが多かったことからキラー・クラウン(殺人道化・殺人ピエロ)の異名を持つ。

少年時代はボーイスカウトに入っていたこともある。アルバイト料の支払いなどの名目で呼び寄せた少年に性的暴行を加えたうえで殺害。その遺体を自宅地下および近くの川に遺棄した。

自身のホモセクシュアリティを隠すために殺害したとされている。1972年から1978年のあいだ、
少年を含む33名を殺害したことが明らかになっている。
資産家の名士でチャリティー活動に熱心だった彼の犯行は、
アメリカ社会を震撼させた連続殺人狂の殺人ピエロです。

彼の描いたピエロの絵画はマニアには大変な人気があり、展示会が開かれたり、
高値で取引されている。著名人では俳優のジョニー・デップが購入して所有しています。

ジョニー・デップもPOGO THE CLOWNの大ファンの一人として有名ですね。
俺も、ジョン・ウェイン・ゲイシーは大好きなSerial killerの一人です。

彼の生い立ちは悲しみと苦痛の日々だと思います。
幼いころから、実の父親に精神面の虐待を繰り返しさててきて、それに必死に耐えて我慢した、
精神が遂に、崩壊して、様々な人格が姿を現して、多重人格障害になる、様子がわかります。

日本でも、近年、虐待が色々な方面から問題になってきている、
昨今、ジョン・ウェイン・ゲイシーの様な連続殺人狂が誕生しても不自然な事だとは、
思わなくなる日も近いと俺は感じています。

もう一度、真剣に虐待やイジメ問題を考えていく時期だと思います。



R.I.P. POGO THE CLOWN John Wayne Gacy
1942年3月17日 - 1994年5月10日